第14話 いずみちゃんは衝撃に固まった。
火曜日になった。
このところ火曜日になると母は男に会いに出かけていた。今日は父に浮気を疑われて初めて迎えた火曜日だ。
母がどうするのか気になって日課のランニングをさぼってしまった。
先週の木曜日以降、母は夕方までぼんやりしていることが多くなった。
それまではあたしが学校から帰ったときには夕飯の用意で忙しいながらも楽しそうにしていた。その生きる気力が失せている。
子供達のために夕飯を作るエネルギーが、男と密会する喜びから生まれていたのだとしたらと思うと切なくなる。
ぼんやりとテレビを眺めていた母は6時のニュースが始まってようやく夕飯の用意にとりかかるのだ。のろのろと。
それはまるで動く屍のように。
自分が何をしようとしてるのかもわからずに手だけが動いている。そんな感じだ。
母の作る食事の味付けも変わってしまった。
意識しているのか、無意識なのかはわからないが、今の母が作る料理は味が薄く、献立も簡素になっている。
男と密会していたころの母は、ロールキャベツやビーフストロガノフ、酢豚、カレイの煮付けのような時間と手間をかけた料理を作っていた。
ところが、今あたしの目の前にあるのは焼きそばとほうれん草のおひたしだけ。
あたしは、冷蔵庫から豆腐を取り出して水切りし、粗く砕いて焼きそばを少量盛り付けた。その上にレンチンした豚肉の薄切りを乗せて夕飯を完成させる。それを見ている母は何も言わない。
あたしもだ。ゆっくりと咀嚼し、明日への活力を蓄える。
やがて部活から帰ってきた啓太は焼きそばにたっぷりとソースをかけた上、ほうれん草を混ぜ込んで一緒に食べ始めた。それを見る母は黙ったままだ。
以前の母なら啓太には「薄かったかな。ごめんね」とか「塩分のとりすぎはだめよ」と声をかけていたはずなのだ。
啓太がまるでどんぶり飯を食べるかのように大口でかきこむのも、以前なら「よく噛んでゆっくり食べなさい」と注意したはずなのだ。
男に会えないことがこんなにも母を苦しめている。
母にとってこの恋がとても大切なものだったと思い知らされ、あたしは目をそらしたくなる。
今の母の姿を見ているのは辛い。
家族を守りたいと願ったあたしだけど、こんな母の姿を見ることになるとは思わなかった。まさに牢獄。
違うな。すでに棺桶に横たわった死人だ。母はこの家の中に居場所をなくしてさまよう亡霊になってしまっている。
母は離婚するかどうかを悩んでいるのだろうと思う。
相手は妻子持ち、離婚して母が得るものなどない。だけど、悩むのは自分のため? 子供のため? それとも見知らぬ誰かのため?
あたしにはすべてが手遅れで離婚するしか道はないように思える。
母がその道を覚悟したとき、あたしは母に、自分の幸せをつかみなよと言って送り出すことができるのだろうか。
今更になって思うのは、あたしにとって母がかけがえのない存在だったということ。
ありふれた日常で見せる笑顔や励まし。さり気なく用意してくれる夏の着替え、冬のコート。いつの間にか新しくなっていた下着や靴下。中学に入学したときに用意してくれたのは皆が持っているのと同じ学生鞄、学校指定のカーディガン。
子供が恥ずかしい思いをしないように心を配ってくれていたことにやっと気づいた。
いや、本当はずっと前から知っていた。ただ自分が満足していなかっただけ。
完璧じゃなかったけど、母なりに手探りで子供のことを思って陰に日向に助けてくれていたことに今まで感謝してこなかっただけなのだ。
そんな母の生きる気力がこの家の中から消えてしまったことがあたしにはたまらなく悲しい。
そして、もう一つ。
父が週末に帰ってこなかったことも、母に重い現実となって覆いかぶさっているのだと思う。
先週末、父は初めて帰省しなかった。単身赴任して以来初めてのことだった。
母は仕事が忙しいからだとあたし達に説明したが、それは嘘だと思った。
そしてそのことは、次の週、さらにその次の週になっても父が帰ってこないことで証明された。
❏❏❏❏
そうして7月も半ばになった。
この週末も父が帰ってくるような気がしない。もしかしたらもう二度と帰ってくるつもりはないのかもしれない。
母が浮気をしているのを知って帰る気持ちが失せたのだろう。仕方のないことだと理解はしている。
でも、事情を知らない啓太は父の変化にとまどっている。
食卓の空いている椅子、そこに帰ってくるはずの父がいない土曜と日曜。お金さえ送ればいいというのは大人の勝手な考えだ。
あたしも啓太もまだ家族の食卓に自分の椅子があると信じていたい。もちろん父の椅子も。母がこのまま家族でいてくれるのならなおのこと。
あたしは無口になった。
元々余計なことをしゃべらないところに家庭の事情が拍車をかけた状況だ。
学校で話をするのは柿崎くらいだろう。もちろん班の女の子や顔見知りと挨拶程度はするが、あたしはもっぱら聞き役。相づちをうってうなずいているだけ。
見ようによっては、相手は壁に向かって独り言をつぶやいている状況だ。そんなクラスメイトが何人もいるこのクラスは異常だ。よく考えると気持ち悪い。
ここはまるで異世界のようで、あたしの目はついつい人の形をした柿崎を探してしまう。
その柿崎も色々と忙しいらしい。放課後は部活にも出ないでさっさと帰ることが増えた。
あたしとの関係はますます希薄になっている。期末試験の勉強を一緒にしようと誘ったが、家に来るのは体よく断られた。図書館で席を並べて勉強をしたが、一度離れた距離が縮まることはなかった。
母が夜外出することもなくなり、あたしが不純異性交遊を偽装する必要もなくなった。
柿崎と母の話をすることはない。柿崎の危ない性癖もなかったことになっている。
あたしと柿崎の関係は、あの非日常の中で生まれたものだった。
秘密を共有し、背伸びをしたまま危ない橋を渡る未熟な道化師。吊り橋効果で脳が錯覚した。親密さを勘違いした。ひと夏の恋のように。
だから冷静になった今、こんなふうにあるべき場所に戻るしかないのだ。
柿崎の作戦はことごとく失敗したけど後悔はしていない。
柿崎と一緒に冒険した。そのことは、大して面白みのなかったあたしの中学生活に鮮やかな色を与えてくれた。華を添えてくれた。柿崎でよかった。
悩みが絶えなかった日々にいつも味方でいてくれたことに感謝している。
それでも、今のあたしの中にはぽっかりと穴が空いている。
情熱とかやる気が全部そこに吸い込まれていくようだ。この穴を埋める何かをあたしは見つけられるのだろうか。
❏❏❏❏
その日、家に帰ると、母の姿がなかった。とうとう家を出たのかとリビングを見回すと、食卓の上に「剣道部の連絡会に行きます」と書いたメモが置いてあった。
カレンダーで曜日を確認する。
7月18日。そうか第三水曜日だ。
夕飯の用意はしてないのかなと、冷蔵庫をあさろうとして、父のキャリーケースが部屋の隅に置いてあることに気づいた。
不吉な想像が頭をよぎる。
お父さん、まさかお母さんのあとをつけてたりしないよね?
お母さんの浮気相手と刃傷沙汰にならなきゃいいけどと形ばかりの心配をしながら、豆腐とレタスを冷蔵庫から取り出す。
夕飯の用意ができていないのなら自分で作るだけと、ちぎりレタスと軽く砕いた豆腐にごま油と麺つゆをかけ、刻んだきゅうりとみょうがを添えて簡単サラダを用意する。冷蔵庫で寝かせて味を馴染ませたら完成だ。
今夜のあたしと啓太のご飯。
啓太が足りないと騒いだらカップ麺か、パンを選ばせる。ただしパンを選んだ場合は明日の朝食がなくなるけど? と、脅しも込みで。
❏❏❏❏
両親が帰ってきたのは深夜だった。
ドアを何度も開け閉めする音が聞こえたから、一緒に帰ったわけではなさそうだ。
すぐに両親の言い争う声が聞こえてきて、あたしは部屋から出られなくなった。多分、啓太もだ。
久しぶりに父に会える嬉しさが、二人の言い争いでどんどんしぼんでいく。
「どうして先に帰ったのよ。あなたが帰ったって……」
母の声がとぎれとぎれ聞こえてくる中に父の声が混じる。
「……柿崎が送ってくれるんだろ」
父の口からよく知っている名前が出た。ような気がした。
まさかね。あたしはベッドを抜け出し、ドアのそばで聞き耳を立てる。
「君と柿崎がラブホテルから出てくるのを見た人もいるって……」
柿崎? 間違いない。柿崎って言った。
「……柿崎とセックスしたんだろ」
父の声がドアの向こうから響いた。母の不倫相手は柿崎の父親だった。
予想だにしなかった事実にドアノブを持つ手が固まる。ドアに耳を押しつけてわずかな聞き漏らしもないよう息をひそめる。
混乱したままあたしは一つの結論にたどりついた。
母が柿崎から家族の情報を聞き出そうとした理由。
母の浮気相手だからだ。
柿崎も親はいつも夜遅くまで帰ってこないと言っていた。すべてのピースがかちりかちりとはまっていく。
「柿崎さんの家に泊まったことなんてないし、セックスなんて冗談じゃないわ」
……泊まった?
ドアに掛けてあるカレンダーをめくって母が外泊した日を調べる。
5月17日木曜日。あの破廉恥な下着が届いた日だ。あの夜、母はすぐ帰ってくるからと言って出かけた。あたしに掃除道具が入った紙袋を見せて。
あれは浮気を隠すカムフラージュだった。あたしを欺くための小道具だった。
「柿崎はずいぶんと紳士的な男だね。ハンサムで優しくて物腰も柔らかい。誰からも好かれて友達も大勢いるんだろうな。君が好きになっても仕方がないと俺は思うよ」
今夜、父は柿崎の父親と会ったのだ。母も一緒に。3人で話し合う、そのために父は帰ってきたのだ。
「柿崎さんのことを好きだと思ったことは一度もないわ……」
声がとぎれとぎれなのは、ドアのせいで音が届かないからか、それとも言葉に詰まっているからなのだろうか。
「……でも、柿崎と一緒にいると楽しかっただろ?」
「柿崎さんと一緒に食事したり、カラオケに行ったことを言ってるのね。……柿崎さんがわたしを女性として扱ってくれたことなの。……あなたはわたしのことをずっとご飯を作ったり、掃除をしたり、洗濯をする人としか見てなかった。……柿崎さんに会ったら心がはずんだわ」
母が車に乗っていたときのことを思い出した。運転していたのが柿崎の父親? 二人で昼間からデートしていたの?
「離婚してくれないか」
……とうとうこの日がきた。
家族が崩壊する。
あたしは目を閉じた。
父の選択は当然だ。母が報いを受けるときがきたのだ。黙っていたあたしも同罪。父の決断を受け入れるしかない。でも啓太は?
「なんでそんなこと言うの? わたしは嫌よ。絶対に離婚なんかしないから」
「……お互いにわだかまりが残るだけだろ。だから一度自由にってよく考えてみればいいんじゃないかな。君は俺と柿崎を比べて本当に大切に思えるほうと再婚すればいい。……離婚すれば君が柿崎と付き合ったとしても……」
母の悲鳴のような叫び声と違って、たんたんと伝えようとする父の声が聞き取れない。今聞きたいのは父の決断なのに。
「変なこと言わないでよ。わたしは柿崎さんと何もないのに」
「俺が嫌なのは、俺がいない間に君と柿崎が親しくしていることなんだ。それを遠くから指をくわえて見ていることしかできないのが悔しくてならない。君が俺を選んでくれたらすべてを最初からやり直せるような気がする。そうなったら、仮に君が柿崎とセックスをしていたとしても許せるよ。結婚前のことだからね。……よく考えておいてくれ」
「なんでそうなるのよぉっ!」
母の叫び声と玄関が閉まる音が重なった。
母のすすり泣く声がドアの向こうで続いている。
あたしも力が抜けてドアに背中をもたれるようにして座り込んだ。
父の言ってることは間違ってない。母は離婚して人生をやり直すべきだろう。
だけど。
だけど、父と母の会話の中にあたしや啓太のことが一度も出てこなかった。
そのことにあたしは絶望していた。
父は単身赴任先にあたし達を連れて行くとは言わなかった。あたしや啓太は父にとって重荷なのかもしれない。切り捨てられたのだ。あたしも啓太も。あの母と一緒に。
これがあたしへの報い。何もできなかったことに対する罰。
そして啓太への報い。何も知ろうとしなかったことへの罰。
一か月ぶりにこの家に帰ってきたというのにあたしや啓太に会おうともしなかった父の、これが本心。
啓太も傷ついているだろう。こんなに大きな声で言い争って、子供達に気づかれなかったと、なんとも思わなかったと、本当にそう思ってるの?
あたしたちは孤独だ。
親から顧みられないだけで、こんなにも世界から孤立してしまっている。どこにも寄る辺のない身の上だと思い知らされる。
そして、もう一つの事実。
あたしは母の不倫相手の素性を知った。
母のせいであたしの家族は壊れていこうとしている。その母は、柿崎の家族も壊してしまうかもしれない。
あたしはもう柿崎に近づくことはできない。
せっかく友人になったが、こんな大きな秘密を隠しながら友達づきあいなんてできない。いつか柿崎を傷つけてしまう。柿崎との関係が疎遠になっていっているのは、結果的にいいことなのかもしれない。
学校はけして安寧の場ではない。
それでも、ここ数か月は母のことを忘れられる場所だった。あたしはそんなつかの間、息を継いで羽根を伸ばすことのできた木の小枝を失ったのだ。
この恐ろしい事実があたしを追い詰め、突きつける。
お前の居場所はこの世界のどこにもないのだと。