第13話 いずみちゃんは崩壊を前に立ちすくんだ。
食卓に並ぶ朝食はいつもどおりだった。
ベーコンエッグとサラダ。大皿に盛られた野菜炒め。そこにご飯とみそ汁が並ぶ。
母のみそ汁は絶品だ。出汁入りのみそを使ったものだけど、えのきやこんにゃく、ごぼう、大根に玉ねぎが入った具だくさん。刻んだみょうがを上からぱらりと。
弟はパン派なのでカップスープにトーストをひたしてかじっている。
もしかしたら箸をうまく使えないのかもしれない。不憫なことだ。
フォークか手づかみが啓太のスタンダード。
ペロペロお皿を舐めたり、ごちそうさまも言わないで席を立って駆け出すところまでも含めて。
昨夜、はからずもアダルト作戦が発動してしまった。その結果、母が父以外の男とセックスしてきたことが明らかとなった。
母も驚いたろうが、あたしも驚いた。浮気が疑惑から確定に代わった瞬間だった。
そんなことがあって迎えた朝なのに、母はいつもどおり早く起きていつもどおりの朝食を用意している。
あたしは気まずくて母の目をまともに見ることすらできないというのに。
浮気が露見した母よりも、身を削る嘘をついた処女のあたしのほうが逃げ腰になるなんて間違ってる。
そう思ってはみても、家族の中では立場の強さがものを言う。
結局、今のところ、あたしは母に心配をかけているただのバカ娘というわけだ。
嘘だと告げる機会は永久に失われ、母にとっては、若いときの過ちなんか気にしないでとか、傷物なんて考えは古いわとか、人生は長い、これからよとか、そんな無責任な優しさで隠した上から目線で心配される不良娘でしかない。
あたしが捨て身の嘘までついて守りたかったものはこんなものじゃなかった。
母のおもちゃになるためにあんな嘘をついたわけじゃない。後悔と恥辱で心が押し潰されそうだ。
❏❏❏❏
その日を境に柿崎と話すことは減った。
自分の性癖をとうとうと開陳してしまった恥ずかしさからか、あたしと距離を置こうとしているようだ。
あたしも冷静になってみれば、男子と無修正エロ動画を観るなんてどうかしていた。
柿崎が変に馴れ馴れしく接してこないことで救われているが、クラスメイトにはあたし達が別れたように見えているのかもしれない。
ただ、柿崎には不純異性交遊の相手役をしてもらうことになっている。あたしと疎遠になっている間に親しい女友達ができても困る。たまには一緒に時間を過ごしたほうがいいかも。
❏❏❏❏
そんなことを考えているうちに数週間が過ぎた。
母は完全に開き直って火曜日の夜はいそいそと男との逢瀬に出かけている。
柿崎が予想したような、娘の不純異性交遊を心配して恋を諦めることにはならなかった。
母は自分が一番大切なのだと思い知らされたが、むしろ、どうして母が家族を、いや、あたしのことを優先すると思い込んでいたのか、あたし自身に呆れている。
家族であっても、母もあたしも、そして父や弟も別の人間なのだ。
人生は自分だけのものだし、感じ方や考え方も違う。やがて訪れる家族の崩壊の受け止め方もそれぞれ違うのだろう。
母の解放感も、父の絶望感も、弟の喪失感もあたしのものではないのだ。
それに禍福はあざなえる縄の如しという言葉もあるじゃない?
母と離婚しないことが父の幸せだと誰が言える? 弟だって母から離れることで自立したしっかりした男になるかもしれない。
家族にこのままであってほしいと願うのは、あたしのわがままにすぎないのだ。それぞれが幸せになるのなら、家族がばらばらになることだってありなんじゃないの?
❏❏❏❏
「お前、レイプ目になってるぞ」
あたしの無気力な態度を評して柿崎が言い放った。
ここが屋上でよかった。
教室だったらしゃれにならない。「レイプされた」と告発するしかない。体はともかく心はレイプされた。泣き寝入りなんかしない。
「何よ。それ」
質問ではない。抗議だ。でも柿崎はそうは受け取らなかった。
「マンガでな。もうどうでもいいという投げやりになった虚ろな目のことだ。そんな目をしてるよ。今のお前」
「あんたがどんなマンガを読んでるのかよくわかった。心配してくれてることも。でもそんな言い方はひどいんじゃない?」
「他に適当な表現が見つからないくらいにお前の目、死んでるぞ。ちなみにこの表現、レイプされたときに使われるんじゃない。むしろ日常の場面で使われる。だから全然いやらしくない」
「意味不明だから。……あんたの日常は奥が深いというか、ただれてるというか、あたしには到底理解できないけど、でも元気づけてくれたのなら、ありがとね」
「ごめんな。俺、役に立たなくて」
「謝らなきゃいけないのはあたし。あんたは関係ないのに」
「でも、俺が提案したから。……謝るって、何を?」
「うちの母はあたしとあんたがセックスしたと思い込んでる。あんたの赤ちゃんができたら産むって言っちゃった」
「おいっ! 赤ちゃんって! なんでそうなった!」
「なりゆきで」
「お母さん、何て言った?」
「それから口をきいてない。でも、ベッドの引き出しにコンドームが補充してあった。あんた、うちの母の公認みたい。うちに遊びに来てもいいんだよ。お土産にコンドームを分けてあげるから」
「俺、もうお前のお母さんに顔を合わせられないよ。いや、本当にそういうことをしていたらきちんとすべきだけど、違うし」
放課後の屋上。訪れる者などいない。
この囲まれた世界はまるであたし達のままごとじみた抵抗の限界を示しているようだ。
「俺、何をすればいい?」
やがて柿崎が口を開いたが、あたしは首を横に振る。
「あんたは何もしなくていいよ。もううちに来なくてもいい。
今回のことでお母さんは大人、あたしは子供なんだと思い知ったんだ。あたしなんかじゃ太刀打ちできない。自分のことは自分で始末できるのが大人なんだ。
多分、お母さんは色んなことを覚悟した上で行動しているんだと思う。
あたしはもう何もしないし、何も言わない。でも、もし啓太が傷つくようなら姉としてなんとかしたい。
今はそれだけだよ」
「俺とお前の関係はどうなるんだ?」
「どうにも? 今までどおりだよ。クラスメイトで友達。でも、あたしにとってはクラスで唯一名前を覚えている友達。
学校で一緒にお弁当を食べたし、うちで一緒に勉強もした。二人だけでカラオケにも行った。エロ動画も観たし、あたしの家族の秘密を知っている。その代わりにあんたのとんでもない性癖を知っちゃったけど。
あんたとあたしがこれからどうなるかなんて今はまだわからない。でも、あたしがここまで自分を見せたのはあんただけ。あんたが気に入らなければあたしに近寄らなければいいし、あたしがあんたのすべてを受け入れられなければ離れていくと思う。
あんたとあたしはまだ何も始まっちゃいないんだ」
柿崎の作るお弁当を食べることはもうないだろう。
いつか、今までのことを笑って話せるときがきたらいいなとは思うが、そんな日はきっとこない。
柿崎はもう何も言わない。あたしも。
二人とも子供で、力が足りなかった。
正しい道を見つけられなかった。自分の権利を振りかざして大人の世界に首を突っ込んでみたけど、空回りして自分を傷つけただけだった。危うく友人まで巻き込んで。
今日は火曜日だ。
母は今夜も出かけるのだろう。それをあたしが咎めることはない。大人が自分の責任でしている行動に軽率に口を出すべきではないと自分に言い聞かせて。
あたしの中の子供がそれでいいのかと問いただすけど、火傷を負ったままのあたしに何ができる?
6月の日差しは夕方になってもやわらぐことはなく、オレンジ色の太陽が屋上を照りつけている。
逃げ場のないこの場所からあたしと柿崎は校庭のトラックを走る陸上部員を見下ろしていた。
❏❏❏❏
深夜、母の言い争う声で目が覚めた。
「そんなに親しいわけでもないのよ」
どうやら、言い争っている相手は父のようだ。
今日は水曜日、いや、明けて木曜日か。
今夜父が帰ってくる予定はなかったはず。最近の母の様子を不審に思って帰ってきたのだろうか。
母が密会するのは火曜日だから、浮気の現場に居合わせたわけではなさそうだけど。
「……が送ってるって言ってたぞ」
「あの人達は何も知らないでしょ。適当なことを言ってるのよ」
そういえば、母は剣道部の後援会の会合に出かけていったはず。後援会の中で母と仲のいい男性のことが噂になっているようだ。それを父が耳にして帰ってきたのだろう。
母はそれをごまかそうとしている。
けれど、あたしは知っている。お父さん、お母さんは浮気をしてるんだよ。
「君のことをあいつの彼女だと言ってたけど、それはどうなんだ?」
「からかわれたんじゃないの? そんなことは一切ないんだから」
それきり声は聞こえなくなった。
あたしはベッドの上で考える。
父が仕事を放って家族にも知らせず帰ってきたのは、母が浮気をしている証拠をつかもうとしたからだろう。けれど、それは徒労に終わったというところかな。証拠をつかまれなかったから母も否定しているのだろう。
母に言い負かされた父が哀れだった。家族のために単身赴任しているのに、その間、母は男と密会していた。許せない気持ちになるのが当たり前だ。
それを、証拠がないのをいいことに母は言葉巧みに言いくるめようとしている。父は、さぞや悔しい思いをしているに違いない。
以前のあたしだったら両親の前に飛び出して母の不貞を糾弾していたところだ。
だけど、柿崎のたくらみに乗って大人の世界を覗いたあたしにはそんなことはできない。
これは夫婦の問題であって、子供だからといって、迂闊に踏み込んでいいことではないとわかってしまったから。
ましてや、あたしは柿崎と不純異性交遊をしていると母に思われている。
事実ではないにしても、これ以上父を悲しませたくない。
あたしがふしだらな娘だと、それを許すふしだらな母親だと父に知らせて傷つけるなんて真っ平だ。
それにしても母の真意がわからない。
母からすれば、あたしに不貞を知られているわけだから今更家族としての体裁を気にする必要などないはず。このまま家を飛び出して男のところに行けばいいのに。
……そうだった。
相手は後援会の人だった。つまり、あたしや弟と同年代の子供がいる家族持ち。うちの家族だけじゃなく、相手の家族も壊してしまう綱渡りのような恋を母はしている。
母の幸せは二つの家庭の犠牲の上に成り立つものだった。
二人がめでたく結ばれた後、あたしや弟が今のような状況にいられるとは思えない。
学校で陰口をたたかれたり、イジメにもあうだろう。弟は、いや、弟だけじゃなく交際相手の子供だって剣道部にはいられないような気がする。転校や引越しだってありうる。
背筋がざわりとした。
ことはあたしが考えていたより深刻だった。大人の選択とかわかったふりで納得していいものじゃなかった。
あたしと弟の居場所がなくなる。その恐ろしさに震えが止まらない。
夏だというのにタオルケット1枚ではこの寒さをしのげそうにない。けれど温めてくれる布団はもう片付けてしまった。
タオルケットを頭からすっぽりとかぶり、あたしは膝を抱えて丸くなって眠れない夜を過ごす。できるのは、ただ祈ることだけ。神様は信じていないけれど。
どうか、最悪の事態になりませんように。
❏❏❏❏
翌朝の食卓は重苦しい雰囲気に包まれていた。
父が帰ってきたことに弟は喜んだが、すぐに戻ると聞いて怪訝な顔であたしを見た。あたしは何も言わずに顔をテレビの天気予報に向ける。
両親のことを弟に話すつもりはない。今はまだ。
天気予報がCMに変わり、調子はずれの音程で商品名を歌う曲が流れた。弟のお気に入りの曲だ。
こんなときに弟の替え歌を聞かされるのかとうんざりしたが、弟は黙々と食事を続けていた。雰囲気を察したのかもしれない。
弟も少しずつだが大人になっている。
中学生になって3か月、小学生のころと違って仲のいい遊び仲間の狭い世界ではない。
スポーツができたり、弁が立つ生徒が自然とリーダーシップをとってクラスの中心を作っていく。その輪の中で自分の立ち位置を見定め、馴染むよう努力しなければ輪からはじき出されてしまうのだ。
部活での先輩の存在も大きい。指導と称して理不尽な命令をされたこともあっただろう。人間関係に戸惑ったりもしただろう。
学校はけして安寧の場所ではないのだ。
だけど、ほかに行くところがない。
あたし達は草原に狼がいないと信じてあてもなくさまよう羊のように学校へ足を向けるしかないのだ。
弟は、啓太は、それでも家族と過ごすときは脳天気に笑って見せていたのだ。
もしかしたらいじめられているかもしれない。今の口数が少ない姿が学校で見せている啓太かもしれない。
そんなことに思い至ることもなく、自分のことだけを考えている両親に心底腹が立った。
いや、あたしも同じだ。
家族のためだとか言いながら、母の行動に回りくどい幼稚なやり方で水をさそうとした。そこに計画を楽しむ気持ちがないと言えば嘘になる。
柿崎と一緒に行動するのは楽しかった。母親の不倫、家族の崩壊という場面に直面した自分の不幸に酔っていた。
なんだかんだ言いながらあたしは楽しんでいたのだ。
だから、もしも両親が離婚したらあたしは啓太と一緒にいたいと思う。
啓太が寂しい思いをしたとき、せめてその辛さを分かち合える存在でいたいから。
母は何もしゃべらない。父もあたしも、そして啓太も。
その苦行のような時間はあたし達姉弟が久しぶりに、そう何年かぶりに一緒に家を出るまで続いた。