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第12話 いずみちゃんは賢者となり、愚者の道を突き進んだ。

 ……生き返ったぁ。


 しんと静まり返った夜。


 闇はこの町をすっぽりと覆い、街灯以外を黒で塗り潰している。空の果てまで無数に散らばる星々のおかげで、天上のほうが明るくきらめいて見えるくらいだ。


 そんな子供の頃から見慣れた景色を見渡してあたしは嘆息をついた。


 田舎町とはいえ、防犯を意識して固く閉じた窓。


 ただでさえ熱気がこもるというのに、作戦参謀サマは布団をかぶって待機しろと言う。作戦がそれを要求するからと。


 だけど、布団の中はあっという間に蒸し風呂と化し、あたしはもう無理とばかりに布団から飛び出して窓を開け放ったのだ。


 カーテンが踊りだし、閉じきっていた部屋が息を吹き返す。


 熱気を蹴散らして風が部屋に涼を運ぶ。


 あたしも深呼吸をして新鮮な空気を肺で味わう。明かりを消した窓辺でパジャマの下を流れる汗をタオルでふき取る。


 作戦参謀サマは布団の中でスマホを操作する計画を立てたが、暑くて布団になんか入っていられない。


 策士策に溺れる。……溺れたのはあたしだったが。


 ほどよく体を冷やしてから窓を閉める。ベッドに戻り、タオルケットだけを手元に引き寄せ、汗で湿った枕を裏返して横になる。


 母がいつ帰ってくるかなんてわかるはずがない。にもかかわらず、睡魔はふとした瞬間にあたしの意識を刈り取りにやってくる。


 やられた一瞬後には、数十分を持っていかれている。そんな攻防の末に、今日は疲れたからまた今度と、自分に言い訳して目を閉じた。


 作戦参謀サマの穴だらけの計画に乗ったあたしがどうかしていた。コンドームも明日元通りに返しておこう。そう決めて睡魔がささやく一時休戦の誘いに乗る。


 すべては明日。仕切り直しを決意する。


 けして睡魔に負けたわけじゃない。はずだ。そう、勝負はまだついていにゃ……ぐぅ。


 眠りながらも睡魔と戦っていたからだろうか、玄関のドアが開く音に脳が反応した。


 睡魔は「これで勝ったと思うなよっ!」と泣き叫びながら去っていった。


 危なかった。


 薄氷を踏むような勝利だった。ぎりぎりで勝ちを拾った。このまま朝まで眠っていたいと思ってしまうくらいの大接戦だった。睡魔恐るべし。


 だが勝ちは勝ちだ。ダイジョオーブ、ボクノバーイワーと勝利宣言をする。ただ、もうひと眠りする前に、母が帰ってきた時間くらいは記憶しておきたい。本番に備えて。


 だから起きて時間を確認しろと自分を励ます。あしたのためにその一、打つべし、打つべし。


 はじめの一歩を、立ちさえすればチャンスはある! チャンスはあるんだと。


 そう自分に言い聞かせて、まぶたを閉じたまま枕元にあるはずのスマホを手を伸ばして探す。


「あぅん!はぁあんっ!」


 スマホが叫んだ。


 部屋中に轟くスマ子ちゃんのよがり声。


 意識が覚醒し、スマ子ちゃんを眠らせようとするが、こんなときに限って電源は落ちてくれない。


 慌ててタオルケットの下に潜り込ませ、その上から布団で押さえ付ける。


 スマホの再生を準備して眠ったことを思い出した。どうやら再生ボタンを押してしまったらしい。


 家中に轟くような大音量が流れたことにほぞを噛む。


 布団の下から小さく「もっと、もっとお!」と泣いている声が聞こえる。希望に応えて布団を折り重ねて厚くする。「いいのぉ、いいのぉ」


 ……そうですか。


 厚く重ねた布団の下のスマホの電源を切ることなんてできない。スマ子ちゃんがイキ狂って満足するまで待つだけだ。


 もしも今、母がこの部屋に飛び込んできたら、アダルト大好きいずみちゃんが爆誕し、あたしの評価は地に落ちる。


 正直なところ、あたしはすでにびびっているのだ。


 アダルト好きの汚名を着てうまく立ち回れる自信がない。詰問され叱られて、それで終わりだ。


 挙動不審な行動は、多分、受験ノイローゼと片付けられるのだろう。


 けれど、いくら待っても母が部屋にやってくる気配はなかった。


 聞こえなかったのかな?


 そんなはずはないと思ってはいても、一縷の望みにかけて、あたしは廊下の様子をうかがう。


 やがてドアが閉まる音が聞こえた。


 気づくと汗でぐっしょりと下着とパジャマが濡れていた。


 母は自分の部屋で寝てしまったのだろう。あたしも汗だくの下着とパジャマを着替えてから寝たい。今日は疲れた。色んなことがありすぎて、頭の中がパンクしそうだ。


 今夜の計画は失敗だったが、まだ終わったわけじゃない。繰り返して実行することで効果があらわれることだってあるじゃない?


 そうと決まればシャワーを浴びてさっぱりしたい。タオルと着替えを持ち、浴室に向かう。


 玄関を見ると、弟の靴がドアの隙間に挟まってきちんと閉められていない。鍵もかかってないし。


 不用心だなぁ。


 あたしはドアを開けて弟の靴を外に蹴飛ばし、きちんと閉めて鍵をおろした。


 これでよし。


 柿崎が帰った後、お風呂に入ってるから軽くお湯で汗を洗い流すだけ。


 ❏❏❏❏


 熱いお湯が胸からお腹、そして股間に流れ落ちていくのを見ながら、あたしは今日見た動画のことを思い出していた。


 どこまでがお芝居なの?


 セックスに興味がないわけじゃない。だけど、あの動画を見た後では、あたしには無理としか思えない。動画で見た女優の痴態が目に浮かぶ。どきどきがおさまらない。


 ビクン


 膝がガタガタ震えてしまう。立っていられず、座り込んで浴槽にもたれ、体重を預けてゆく。


「あふぅん!」


 変な声が出てしまった。浴室に響き渡ったのと同時に我に返った。


 シャワーが降り注いで肌を打っていた。飛沫が顔に当たっているが、気だるさが勝って、身動きするのもおっくうだ。


「やだなぁ」


 口をついて出た言葉に意味などない。ただ、不意にすべてが無意味に感じられ、日常の諸々がわずらわしくなっただけ。


 あたしはもうすぐ中学を卒業する。高校に進学するつもりだし、大学にだって行くかもしれない。会社で働いたり、結婚して子供を産むことだってあるだろう。


 その子を育てているうちに時間は流れ、やがて老いて死んでいく。人類が繰り返してきた幾千万の昼と夜をあたしもなぞるのだ。そのことをたまらなくいやだと思った。


 お湯が体をつたって落ちていく。


 その流れが14歳のあたしを形どっている。あたしはあたしというたった一人の人間なのに、あたしの人生は結局男とめぐり逢い、子供を産んで育て死んでいく存在にすぎないのだと理解してしまった。いつかテレビで見た産卵のために川を遡上する鮭と同じだ。


 すべてのエロ動画、エロ本は、その真実を覆い隠している。


 ただの生殖行為を何か価値があるかのように飾りたて、男達はその真実に気づくことなく、性的な興奮に身を委ねて踊らされている。


 だけど、あたしは気づいてしまった。エロの本質に。興奮のその先には虚無感しかないことに。


 いつか、あたしが誰かを好きになったとき、この虚無感と折り合いをつけることはできるのだろうか。


 気持ちが晴れないまま、洗いたてのパジャマに手を通す。


 シャワーで汗を洗い流してさっぱりしたはずなのに、あたしの心はどんよりと曇っている。あんな動画を見たせいだと柿崎に筋違いの怒りを向けてしまう。


 部屋に戻ろうとして、リビングの明かりが漏れていることに気づいた。中を覗くとソファに母が座っていた。


 着替えてもいない。自分の部屋で寝てたんじゃないの?


「お母さん、帰ってたの?」


 これはただの挨拶。


 帰りが遅いことを責めるつもりはなかった。いたから声をかけただけ。すぐに部屋に戻ってシーツを替えて眠るつもりだった。けれど、母は沈痛な面持ちであたしに声をかけてきた。


「……ごめんなさい。家を空けることが多かったからいずみにも寂しい思いをさせたわね」


「何言ってるの?」


「だから、今夜のようなこと……」


 顔がこわばる。浴室の声が聞かれた?


「聞いてたの?なんで! なんで!」


 パニックになって抗議する。


 聞こえなかったふりをしてくれたっていいじゃない! 性の目覚めなんて誰にでもあることでしょ? そんなにいけないことなの?


「声をかければよかった?」


「そうじゃない! なんで言うの? そういうこと」


 あたしは誰にも迷惑をかけてない。お母さんはとは違う。


 セックスしてる分、お母さんのほうがたちが悪いじゃない! 怒りで自分を抑えられなくなっている。


「あなたのことが心配なの」


 もう我慢できない。あたしの怒りが暴走を始める。


「あたしとお母さんは違うでしょ! この間あたしが言ったこと、高をくくってバレやしないなんて思ってるんじゃないの?


 気づかないはずないじゃん。夜、お化粧して出かけるし、帰るのは深夜だし。もうバレバレじゃん。男ができたって。今夜だってその男と一緒だったんでしょ。そのカッコ見れば一目瞭然だもんね。


 だけど、お父さんのことはどうするの? お母さんがやってることって浮気だよね。不倫だっけ? お父さんとは別れるの? そうやってこの家を壊して、お母さんは平気なの?


 あたしは子供だから何もわからないけど、それでも悲しい、悔しいって感情は持ってる。今、この家が大変なことになってる、それはお母さんのせいで、ううん、お母さんにだって言いたいことはあるのかもしれない。


 だけど、だけど……」


 叫んで感情を爆発させているうちに、少しずつだが、頭が冷えてきた。


 母が心配してるのが、あたしの浴室での行為じゃなくて、激しいよがり声であえいだスマ子のことだと。


 柿崎がすました顔で「プランどおりだ」とほくそ笑んだ。ような気がした。


 アダルト作戦、もしかして発動しちゃった?


 どうしよう。確かにこの状況はプランどおりなんだけど、スマ子がやらかしちゃったことなのに、あたしが大声でよがってセックスを楽しんでたって思ってるよね。あの顔は。


 しかたない。柿崎には早々に泥をかぶってもらおう。


 脳内で「これもプランどおり、なのか?」と顔をしかめる柿崎の胸ぐらをつかみ、「あまりなめた態度とるんじゃあねーぜ。あたしはやると言ったらやる女だぜ」と、不退転の決意で叫ぶ。


「あたしとようちゃんは真剣なの! お母さんとは違うっ!」


 母はあたしに気圧されて口をぱくぱくさせている。

 言い切ってしまったが、これからどうしたらいいか、ノープランだった。とりあえず戦線から撤退だ。


 だけど母が父に相談して大事おおごとになることだけは避けたい。釘をさしておく。


「ねぇ、お母さん。浮気してること、お父さんに黙っていてほしかったら、あたしと彼のこともお父さんに言わないで」


 それだけ言ってきびすを返す。


「……待って。…お願い、待って」


 すがりつく声が聞こえたが、もう引き返すことはできない。賽は投げられたのだ。


「……赤ちゃんができたら……」


 生々しい言葉に振り返る。


 母が涙ぐんでいた。心配かけていることに心がずきりと痛む。背中がぞわっと寒くなる。


 あたし、とんでもないことをしちゃったのかも。


 自分の想像力不足から柿崎の「不純異性交遊のふりをすればぁ」みたいな軽率な提案にうかつに乗ってしまったあたしがバカだった。けれど、これで母と対等になった気がする。


 泥まみれにならなければ泥の中に立つ人の心に声は届かない。


 母はやっとあたしと向き合ってくれたのだろう。殴っていいのは殴られる覚悟のあるやつだけだ。


 ルルーシュではなく、クー子版。


 母の震える唇を見ながら勇気を振り絞って答える。


「……コンドームを使ったわ。こんなこと言わせないでよね」


 ごめんなさい。嘘です。


「買ってきたの?」


 まだ続くの? もう許してよぉ。


「……お母さん達のベッドの引き出し。あることは知ってたから」


「それでも避妊は100パーセントじゃないのよ。ねえ、明日病院に行ってアフターピルもらってこない? お母さんも飲むから」


 そう言いながら、気まずそうにあたしの体を舐めるように上から下まで眺めている。


「お母さん、最低っ!」


 あんまりだ。


 そんなこと聞きたくなかった。さらりとセックスしてきたことを告白しやがった。


 お母さんにとってはそんなに簡単なことなの?


 男と寝ることも、娘にそのことを話すことも。恥ずかしいとは思わないの? これが大人の会話? だとしたらあたしには無理っ!


「でも……」


 話はこれからだと続けようとする母に最後通牒を突きつける。


 これ以上話していたらきっとぼろが出る。嘘だってばれたら、後に残るのは母の恥ずかしい告白だけ。


 そんなことになったら、あたしは母と一緒に暮らしていけない。


 母を罠にかけるつもりなんてなかったのだ。


「もし、赤ちゃんができてたら、あたしは産みたい! ようちゃんの子供だもん。でも、お母さんは産めないでしょ。不倫の子だもんね。それともお父さんと離婚して産んじゃう? 家族を捨てて男に走っちゃう? そもそも父親がどっちなのかわかるの? あたしはお母さんとは違うっ!」


 そう言い捨て、リビングから飛び出してベッドに逃げ込んだ。頭からタオルケットをかぶって現実からの逃避を試みる。


 もう堪えられない。無理。無理無理ムリムリムリムリィィー!


 母があたしの体をじっとりと舐め回すように見たあの目が嫌だ。男を知ったんだねって言いたそうなあの目。


 あれって母親の目じゃないよ。


 全裸女に浴衣を着せて辱める妄想をしている変態だって、あんな目をあたしに向けたことはない。穢されたような気持ちになったことなんてない。


 まさか自分の母親からそんな目で見られるなんて思ってもみなかった。大人になるってこういうこと?


 目から涙がこぼれ落ちた。


 これは悲しいから? 悔しいから? あたしは枕に顔を押しつけて目を閉じる。


 朝になったら、なかったことにならないかなぁ。


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