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第10話 いずみちゃんは暗黒物質に驚愕した。

 太陽がじりじりと路面を焼いていた。


 アスファルトの切れ目に根付いた雑草は枯れるでもなく、行き止まりの生にしがみついている。


 落ちた影はくっきりと闇を描き、その安全地帯を渡り歩くように、あたし達はカラオケから帰路についている。


 やがていつもの交差点、あたし達の分岐にさしかかった。


 信号が青になるのを待ってまっすぐ横断歩道を進めばあたしの家。このまま角を曲がれば柿崎の家。


 柿崎はいつもあたしが横断歩道を渡り始めるまで一緒に信号待ちをしてくれる。


 あたしは隣りに立つ柿崎に声をかけた。


「ねぇ、柿崎」

「なんだ?」


「あたし、今、あんたと友達になって本当によかったと思ってる。これからもよろしく」


 そう言って手の平を広げて差し出した。


 柿崎は戸惑っていたが、やがておずおずと手を出してきた。


「違う。返して。あたしのショーツ」

「ああ、そうだったな」


 そう言ってかばんの中から白い袋を出してあたしに手渡した。


「この中に入ってる。変なことはしてないけど、気になるのなら捨てたほうがいいな」


「本当に匂いをかいだり、頬ずりしたり、ぺろぺろ舐めまわしたり、自分で履いてみたりしなかったの?」


「するかっ」


「その言葉、信じろというほうが無理だよ。あんな姿を見せられちゃうとね」


 カラオケ店で見せた柿崎の固有魔法、邪心眼。


 インターフェイスに触れただけでデータを読み解き、好みのエロ動画を引き寄せる魔法。柿崎はよこしまな心をその身に宿すことで開眼した。


 写輪眼じゃないよ。邪王真眼でもない。エロに特化したエロ魔王だけが持つユニークスキル。


 ちなみに中二病ではない。男ならあんがい誰にでもあったりする。あと特殊な女子にも。


「あれはお前のために」


「あたしのため? 嘘だね。思い出してみてよ。あんたは邪心眼で選んだいつもの動画をあたしに見せようとした。中身を確認することなくスマホをあたしに向けて再生した。それは、エロ動画を見せられたあたしの反応を見たかったからじゃないの?」


「そんな、ことは、ないぞ?」


 裏返った声が確信犯だという何よりの証しだ。それでも認めないなら仕方がない。奥の手を使って自白に導く。


 あたしのターン、ドロー。


 手札から「口寄せの魔女」を召喚する。


 場に伏せておいた魔法カード「甘いささやき」を発動、その効果「理解度MAX」で柿崎の深層心理を暴き出すダイレクトアタック!


「……あのね。男の子が夜な夜な何をしてるか、あたしだって知ってる。陸上部の男子達は女子の誰が発育がいいとか、いつも目を皿のようにして品評会をしてるし、練習中、背中にいやらしい視線を感じたの一度や二度じゃない。


 でも、だからといってあたしは汚いとは思わない。だって自然なことなんだもん。異性に好意を寄せる、そのきっかけが容姿だったり、何気ない会話だったりするのは当たり前のこと。


 ねぇ、あんたは考えたことがない? 誰かを好きになることと、その人のすべてを知りたい、自分のものにしたいと願うことはコインの表と裏のようだって。


 誰かを愛するってその人の唇や指、乳房やお尻に触れたいってことと一緒なんだよ」


「そうなのかな」


「だからね。恥ずかしがることなんかないよ。みんなしてることなんだから……」


「みんな?」

「そう、みんな」


「みんなしてる?」


「そうだよ。だけど、言葉にするのは勇気がいるよね? わかるよ。よぉくわかる。だからあたしがあんたの手を握って数を数える。


 ただ数えるだけ。意味なんかない。あんたは適当なところであたしの手を強く握り返せばいい。


 じゃあ目を閉じて。


 いい? 自分に正直になってね。


 本当は……何回シタの? ……いーち、にー、さーん、し?」


 目を閉じて口寄せの魔女のいいなりだった柿崎が突然叫んだ。


「って、やっべぇ!うっかり握るところだったわ。お前、怖いよ。マジで怖い」


「大丈夫だよ。わからなかったから」


 だけど、あたしの手はごまかせない。柿崎は3で握った。


 コノヤロウ、やっぱりオカズにしてやがった。しかも3回。


 いや、問題は回数じゃない。オカズにしたショーツを何くわぬ顔であたしに渡そうとしたこと。


 今夜は、それをあたしが履くことを妄想してオカズにするつもりだったに違いない。


 恐るべし、エロ魔王柿崎!


 あたしは握っている柿崎の手が利き腕じゃないことにほっとする。


「じゃあ、あたし行くね」


「ああ、俺の提案、考えてみてくれ」


「そうだね。もし、お母さんが出かけるようなら電話する。そのときは協力して」


 信号が青に変わり、あたしは横断歩道を駆け出した。


 彼氏彼女の関係は多分これで終わるのだろう。


 でも、友達になりたい、そう言ってくれた男の子にあたしは新しい関係を期待している。


 だから昨日までのあたしと決別しようと思った。その決意を形にしたくて、あえて後ろは振り向かなかった。


 家に着いたときはもう4時を回っていた。


 母は夕飯の準備をしている。こんなに早くから。それは今夜も出かけるということを意味していた。


 ならばとあたしも準備を始める。


 柿崎に頼ってばかりだが、終幕を告げる鐘くらいは自分の手で鳴らしたい。


 これは家族の問題。母にはあたしに向き合ってもらう。全力で。


 男を取るか、家族を取るか、母には辛い決断を迫ることになりそうだが、これで母の目が覚めなければもうどうしようもない。いずれこの家を出て男のところへ行くだろう。


 そんなことになりませんようにと祈りながら、あたしは一世一代の大芝居を打つ。


 これは母の心を取り戻すための戦いなのだ。


 だけど、本当にいいの? とささやく声がする。


 あたしが母と一緒に過ごせるのは、せいぜいあと3、4年。母の残りの人生と天秤にかけるには短すぎる時間だ。


 母は恋を諦めても、家族を諦めても、きっとあたしを恨むだろう。けして赦さないだろう。多分死ぬまで。


 深呼吸して、高ぶる気持ちを抑える。


 何も知らない父の代わりにあがいてみよう。たとえ、その先に行き止まりの未来しか待っていないのだとしても。


 6時30分、いつもより念入りに化粧した母が出かけていった。


 それを冷たい目で見送ったあたしは、電話で柿崎を呼び出し、ミッション開始の合図を告げる。


「あんたの靴を持ってきて!」


「そう言うだろうと思って用意してある。今からお前の家に行く」


 頼もしい返事に安堵する。


 あたしの味方がここにいた。一人じゃない。それだけで勇気が湧いてくる。


 柿崎にリクエストしたのは、できるだけ古いスニーカー。履きつぶしたようなやつ。絶対に啓太の靴と見間違えることのないように。


 ほら、啓太のスニーカーは母の手入れが行き届いていて、いつも新品のようにきれいに洗ってあるから。


 やがて柿崎が現れた。指示したとおり靴を入れた袋を持って。


「上がって」

「いいのか?」


「うん、あんたの協力が必要だからね。実際に何もなくても、あんたはあたしの共犯者。もしお母さんに問い詰められたらあんたの名前を出すことになる。


 あんたは親に叱られるだろうし、学校に知られたら……中学だから退学はないとしても処分はあるでしょ。


 あたしの家族のことなのにそんな責任負わせちゃうんだから、あんたにはすべてを知る権利がある」


「えっ?」


「まさか考えてなかった? あたしに不純異性交遊の疑いがかかるわけだから、相手がいるでしょ。お母さんが知ってるあたしの男友達はあんたしかいないんだから、あんたが適任じゃない。これを思いついたのもあんただし」


「そ、そうだ……ね。もちろん考えてたよ。ただ、俺なんかでいいのかなって……」


 急にうろたえだした様子にあたしは、はぁとため息をつく。


 考えてなかったんだね。その顔は。


 詰めの甘さにプランへの不安が生まれる。あてにならない味方は最大の敵だ。


「どうする? やめてもいいんだよ。元々あんたには関係ないことだし。ただ、そうするとこの計画には無理があるね。どうしようか?」


「……いや、お前さえよければ相手役をやらせてくれ。別のやつには譲れない」


「急に積極的になったね。どうして?」


「その、万が一だな。学校に知られた場合、当然クラスの連中にも伝わるだろ? そのとき、相手が俺じゃないってことになったら、俺の立場って微妙じゃないか? その、なんていうか…」


「寝取られた?」


「おまえ、そんなはっきり……」


「実際に何かするわけじゃないんだから、別にいいでしょ」


「何もなくても、いや、むしろ何もなかったとわかったときの俺って、どうなの? 彼女の相談にも乗らなかった薄情なやつだって思われないか? こうして協力してるのに」


「でも、あんたが関わってるってばれたら内申書に響くかもしれないよ。いいの? 高校に行けなくても」


「それは困る。だが、お前こそどうなんだ?」


「これはあたしの家族の問題なの。受験も大切だけど、放ってはおけない。今は先のことなんか考えられない」


「そうじゃなくて、お前、俺と付き合ってるのに、他のやつと、その、するとか、完全にビッチ扱いだぞ。学校で」


 それは嫌だ。あたしは処女なのに。


なによりあたしが母を見ているのと同じような目を向けられるのは絶対に嫌だ。


 ばれたらビッチ、ばれたらビッチと、シュプレヒコールが鳴り響いてやまない。


 固まったあたしを尻目に、柿崎は持参した袋に手を入れる。そして取り出したのは。


「くっさぁい!」


 思わず叫んでしまったけど、これはもう失礼とか言ってるレベルじゃない。


 いや、あたしの反応じゃなくて、このにおい。


 リクエストしたのは靴だったのに、持ってきたのはドブネズミの腐乱死体。としか見えないかつてはスニーカーと呼ばれたモノ。


 存在するだけで思考のすべてを彼方へと消し去ってしまうダークマター。


 だってにおいがもう犯罪。


 生物兵器? バイオハザードだよ。


 なんてモノをあたしの家に持ち込むのかなぁ! いくらなんでも許せない。


 あたしは鼻をつまみながら怒りをぶちまける。


「ひょく、ほんなもの、もってほれたふぁね!」


「お前が言ったんだろうがっ!」


 柿崎も真っ赤になって言い返した。


 そのとおりだ。


 確かにこれはあたしの発注ミス。洗ってもってこいというべきだったのだ。


 この世にスニーカーを洗わない蛮族がいるなんて思いもしなかったし、こんな異臭を放つブツを平気で女の子の家に持ってくる勇者がいるなんて予想もしなかった。


 くっ、痛恨のミス。


 あたしは自分の想像力の乏しさを呪った。


 だけど、履きつぶしたスニーカーがこんなにくさいなんて思わないよね。普通は。


 うちには無縁なにおい。弟のスニーカーを毎週徹底的に洗っている母に感謝だ。


 あの、自分では食べ終えた食器の後片付けすら思い浮かばないような愚鈍な弟のことだ。


 母がいなければこのレベルEの細菌兵器を続々と生産することは容易に想像がつく。これだけでも母を手放せない十分な理由になる。


 柿崎を説教してやりたい。こんこんと、一晩中。ついでに弟も一緒に。喉首を締め上げながら。


「はんではらふぁないのよ!」


 だめだ。日本語にならない。


 あたしは一言発しただけで柿崎を真人間にする努力を放棄することにした。


 ほら、こいつはもしかしたらこういうにおいが好きなのかもしれないしね。


 そうだとすれば、これは嗜好の問題。うかつに他人が踏み込んでいい領域じゃない。親しき仲にも礼儀ありというしね。


 こいつの性根を叩き直すのは未来のこいつの彼女に任せた。


「そんなにくさいかぁ?俺ならまだいけるが」


 ……何が? 何がいけるの?


だめ。聞いちゃだめ。どうせクズな答えしか返ってこないから。


 思考が混乱する中、それでもあたしはたった一つの真実にたどり着く。


 母が帰ってこのにおいをかいだら、不純異性交遊の前に不純異臭交遊の大罪で咎められるに違いないことに。


 付き合う人は選びなさいって。


 こんなのを平気で履ける人は生活がだらしないからって。


 お風呂が嫌いできつい体臭が染みついている、洗濯をしないから袖や襟に黒い汚れがついた着たきりの一張羅。


 脱いだ服は散らかしっぱなし、流しに食器をためっぱなし、ゴミは床の上に投げっぱなし。


 負け続けのギャンブルに明け暮れ、一日中、酒のにおいをさせて、気に入らないことがあるとすぐに暴力をふるう。


 そんなクズと付き合っちゃだめって。


 あれ? もしかして啓太にも通じるところがあるんじゃない?


 いや、今はそんなことよりこのダークマター。


 こんなモノ、一時的であっても玄関に置いておくなんてできない。


 たとえファブリーズを生地の内側まで念入りに吹き付けて除菌消臭したとしても、この汚染物質の深淵にまでは届かないような気がする。


 ハイターに漬け込んで殺菌消毒を試みても怪しげな何かを発散するようで未来永劫触ることすらできそうにない。


 それほどまでに禍々しいオーラを発している。


 もう、燃やすしかない。灰となってこの世から消滅するのをガスマスク越しに見届けるまで安心できない。


 あたしはこのスニーカーに似たドブネズミの腐乱死体の所有者に懇願する。


「おへふぁい。ふぉれをほとにふへへ」


「捨てろ? せっかく持ってきたのに?」


 ふざけんな。と言いたいが、声が出ない。


 いや、ねずみが嫌いだから捨てろって言ってるわけじゃないよ。


 東京都舞浜区に巣食うセレブなねずみとか超好きだし。


 病気を持ってないし。洗ってるし。洗濯してるよね? あの外側。


 あたしが責めているのは、平気で人んちにそんなモノを持ってくる無神経と非常識なんだ。


「そんなにくさいかぁ?」


 柿崎がドブネズミを自分の鼻に近づけてにおいを嗅いでいる。うげぇ。


「まだいけるがなぁ」


 まだ言うか、こいつ。


 何がいけるのか、聞く気もないが、まさか、悪魔を召喚する供物にとか言わないよね? そんなことしてないよね?


 今のあんた、使い魔を使役する魔術師の顔をしてるんだけど。


 だけど、あたしの驚愕している顔を見て反省したようだ。


 柿崎は黙って袋に戻して玄関の外に出した。


 今のあたしは涙目になっている。


 それは鼻をつまんでいても耐えられない、人権を蹂躙するようなひどいにおいのせいだが、柿崎には哀願しているように見えたのかもしれない。


 まあ、結果的には同じようなものだが。


 それでも、あたしの顔を何度も振り返り、ブツの入った袋を名残り惜しそうに丁寧に地面に置くのがうっとおしい。


 あたしの気が変わって、外に出さなくてもいいよとか言うのを待ってるんじゃないよね?


 そんなこと言うわけないじゃん。


 そんなものを勝手に持っていくやつなんてこの世にいるわけないじゃん。


 悪魔への供物に直接手で触れた魔術師をこのまま部屋に入れるわけにはいかないので洗面所に連れて行って手を洗わせる。


「石鹸はね。泡で洗うんだよ。爪の間もね」


 どうでもいい御託を並べながら、もう1分以上も泡だらけの手を揉んでいる。


 まるで泥遊びに興じる子供だ。


 やだなぁ。こんなやつ。黙って洗えよ。


 できれば顔も洗ってうがいもしてくれ。時間があればシャワーを浴びてもいい。


 でも、その間にこいつが着ていた服とか、履いてきた靴をポリ袋に入れて捨ててしまいそうなあたしを止める自信がない。


「拝んで洗っていち洗い。指先洗ってに洗い……」


 へっ? 何なの。その歌?


 柿崎が妙な歌を口ずさむ。


 あたしはもう何が何やら。でもそのごきげんな様子に緊張感が緩やかにほぐされていく。


「手の甲洗ってじゅう洗い……」


 そのぬくもりに魅入られたように、いつの間にかあたしは柿崎を背中から抱きしめていた。


 柿崎の歌は終わり、手の動きは止まっている。


 あたしは柿崎の背中に体を預けてじっと目を閉じている。


 あたしに勇気をください。そう念じながら。


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