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第1話 いずみちゃんは部活をやめた。

 3月ももう半ば、夕陽が落ちるのが日々遅くなっていることにふと気づいてあたしは立ちどまった。


 ちょっと前まで夕方の6時といえば真っ暗だったはず。


 薄暮の中、下校しながらあたしは街並みと空を眺めていた。生暖かい風が春の訪れを告げている。もうマフラーは要らないかもしれない。もしかしたらコートも。


 今日、中学の卒業式があった。式は午前中で終わったけれど、大好きな先輩と別れがたくて用もないのに部室に残ってしまった。


 先輩は陸上部の短距離走での成績が認められ、東京の高校に推薦入学することになった。


 たった一人でダッシュを繰り返して練習していた先輩に明日を開く道ができた。この田舎の中学では満足な指導も受けられずにいたのだから、これは喜ぶべきことなのだとわかっている。


 だけど。


 東京に行ってしまう先輩と会うことはきっともうない。


 今更気持ちを伝えてもどうしようもないのだ。


 それでも。


 こみ上げてくる感情に突き動かされて二人きりになれるのを待っていた。たとえ叶わなくてもあたしの初恋をきちんと終わらせてあげたかったから。


 先輩がトラックの脇で空を見上げて立っている姿が好きだった。孤高の大鷲が空へ飛び立つ前に目指すべき雲の一点を見定めているかのような、ひたむきな姿にあたしは憧れていた。


 でも、もうその姿を見ることはできない。思えば、陸上を始めて2年間、あたしはその姿を見ているだけで何もしてこなかった気がする。おそらくは自分の意思で走ることすらも。


 先輩が卒業したら陸上部をやめようと思っていた。目立った成績を残せなかったあたしは、2年もかけて走る才能がないことを証明しただけだった。


 それに、先輩がいないとわかっているトラックに立つのはつらいと思った。どんなに探してもあの姿はもうないのだから。


 あたしは先輩には友人はいないと思っていた。少なくとも陸上部には。部活で誰かと親しくしているところを見たことがなかったから。だから、今日、先輩と二人きりになるのは時間の問題だと思っていた。


 3年生の追出会が終わって一人で出ていく先輩を追いかけて告白し、せめて今日だけでも一緒に帰ってほしかった。


 けれど、そんな時間はついにこなかった。いつの間にか姿を消していた先輩のことに誰も気づかないまま追出会は終わった。先輩がドアから出ていくことすら気づかなかった自分が情けない。


 先輩の電話番号なら知っている。電話をかける勇気がないだけだ。


 それで、あたしはいつものように一人でとぼとぼと帰宅している。いつもと違うのは薄暮の中、季節の移り変わりを感じているということ。


 こうしてあたしの初恋は相手に伝えることすらできずにひっそりと眠りについた。きっとこのまま時間とともに埋もれていって、いつしかあたし自身も忘れてしまうのだろう。小学校の友人の電話番号をいつのまにかなくしてしまったように。


 家に帰ると、弟の啓太が満面の笑みであたしを待っていた。


「いずみちゃん」


 この、無神経なところがある2歳違いの弟は両親からとてもとても大切にされている。あたしも素直に可愛いとは思う。けれど、今はその声が耳ざわりだった。


 先輩に思いを伝えらず沈んだ気持ちのままその高いテンションは受け止められそうにない。その顔も今は生理的に無理。


 けれどこいつはあたしのそんな気持ちにお構いなくまとわりついてきた。


「僕ね、中学に入ったら剣道やるんだ」


 あっけらかんとした言い草にこめかみがひきつる。きらきらした目で夢をかたる弟だが、剣道に興味を示したことなどこれまでなかったはず。


 アニメか漫画の影響なのかな? でも、うちの剣道部は強豪だから中学から剣道を始めても遅いんじゃない?


 もちろん弟につまずいてほしいわけじゃない。けど、現実が見えないまま夢をかたる姿が2年前のあたしと重なって、まともに見ることができない。


「ふうん。それで?」


「うん、それでね。来週見学会があるんだけど、知らない人ばっかりだと怖いから、いずみちゃんに一緒に来てもらえたらなって」


「……あんた、人見知りなんかして部活やっていけるの?」


「や、剣道部には清水や山下と一緒に入るから平気なんだけど。怖い先輩に目を付けられたらいやだし。いずみちゃんがいたら大丈夫かなって」


「あたしは虫よけか?」


「だって、しごきとかいやだし。お母さんに心配かけたくないから……だめかな?」


「……いいけど。でも、あたしじゃ役に立たないよ。剣道部に知り合いいないから」


「それでもいいよ。他にあてもないから」


「そう。じゃ、あとで予定教えて」


「うん、あのね」


「あとでね。ごめん。今は疲れてるから」


 弟が話を続けたそうにしていたのを振り切って自分に部屋に閉じこもった。制服のままベッドに倒れこむ。今は何も考えたくない。


 ぼんやりと天井を見ていると涙があふれてきた。あたしは右腕で目を覆いながらうつ伏せになる。不甲斐ない自分から目をそらすように。


 もう14年も生きてきたんだ。何かをなくすこんな辛い気持ちも初めてのことじゃない。このままじっとしていればわけのわからない苦しみもやり場のない痛みも薄らいでいくはずだ。


 先輩は卒業していなくなった。もう二度と会えない。ただそれだけのこと。


 だけど、こぼれ落ちる涙があたしを裏切る。空高く飛びたった大鷲のことを想ってあたしは泣いた。


 ❏❏❏❏


 月曜日の放課後、あたしは先輩がいないのを確認するかのように教室の窓からグランドを眺めていた。


 退部届はさっき提出してきた。だからさっさと帰ればいいのにそうしないのは、何かを置き忘れてきたような気がしたから。


 引き止める声がなかったことを悲しんだのではない。ただ、昨日まで隣にいた人がいなくなるというのに理由すら聞かれなかったことで心は冷えたけど。


 部員がアップを始めた。その中にあたしはいない。その現実が、何もなし得なかった2年間の重さとなってあたしにのしかかってくる。


 春の暖かいひだまりの中、虚無感が膨らんでいく。正体のわからない焦りが生まれる。あと3週間もすれば3年生。中学最後の1年が始まる。正確には卒業まで1年を切ったところだ。


 こんなにも気鬱な放課後があるなんて知らなかった。この先あたしは何をしてこの時間を埋めればいいのだろうか。


 そんなあたしのささくれだった時間を切り裂くように名前を呼ばれた。


「大原、部活行かないのか?」


 今一番聞かれたくない質問をしてきた男子はクラス委員の柿崎。つまり、みんなの世話役をこの1年間務めてきたやつだ。


 答えるのも面倒くさかったあたしは目で柿崎を確認しただけで無視することにした。


 こいつには関係のないこと。あたしの時間を邪魔されたくない。あたしはグランドに目を戻して柿崎が離れていくのを待つ。


「ごめん。本当は大原が陸上部をやめたの知ってた」


 思わず隣に立っている柿崎の顔をにらみつけてしまった。


「さっきやめたばかりなのになんで知ってるの?」


「職員室で顧問に話してたのが聞こえた」


「それで暇になったあたしをナンパしにきたわけか」


「お前が今立っている場所な、陸上部のトラックが一番良く見えるところ」


「……それって、いつも見てたってこと?ちょっと、気持ち悪いんだけど」


「そしてそこは俺の定位置。去年の6月からずっとな」


 ヤバイ。ガチのストーカーだ。


 あたしは助けを求めてあたりを見回した。夕焼けが広がる教室にいるのは、あたしとこいつだけ。職員室にはまだ先生が残っているはずだから襲われるなんてことはないにしても、犯罪の匂いをプンプンさせているこいつといると身の危険を感じる。


「……つまり、あんたは陸上に関心があるってことかな」


「そんなわけないだろ」


「デスヨネー。そうなると、陸上部に気になる女の子でもいるのかな?」


「惜しい」


「男の子?」


「俺な。大原が走ってるのを見て、格好いいなって思った」


「ええと。ありがと?」


「なんで疑問形なんだよ」


「褒められたのはわかったけど、素直に喜べないような……」


「喜んどけよ。そこは」


 いや、無理でしょ。むしろ今はストーカーから距離を置きたい。


これはあれだね。交際を申し込まれたらきっぱり断るのがベストアンサー。グーグル先生もそう答えるに決まってる。とりあえず防波堤を置いておこうか。


「あたし、あんたのことよく知らないし、素直に喜ぶのは無理かも」


「わかる。俺も大原のことよく知らないし。いや、知らないのは大原に限ったわけでもないか」


「仲のいい女子は?」


「……」


「女子とはあんまり話さないってことかな?」


「そうだな。何を話したらいいかわからないし」


「今あたしと話してるのはどうしてかな?」


「陸上をやめたって聞いたから……。なんでかな。たぶん、大原って、格好よく走るんだなって言っておきたかった。ただそれだけなんだと思う」


「変だね。もう陸上部やめたのに」


「うん。変だ。でも、やめるって言ってるのを見て、どうしてもそれだけは言っておかなきゃいけないと思った。ごめんな。邪魔して。俺は帰るから」


 そう言って背を向けた柿崎に思わず声をかけてしまった。


「柿崎は……」


 柿崎が振り返った。でも、言葉が続かない。あたしはなんで声をかけたんだろう?


 不審そうに見つめ返す目があたしの言葉を待っている。あたしは言葉を探す。この際何でもいい。何かない?


「部活、何やってるの?」

「帰宅部。なんで?」


「剣道部だったらなって思ったから」

「なんで剣道部」


「4月に弟が入学するんだけど、明日の剣道部の見学会を見たいからって付き添いを頼まれてるの。あんたが剣道部だったらお願いできないかなって」


「そんなことか。部長の木田は友達だから話しておくよ」


「じゃあ、明日弟を連れてくる」


「大原はどうする?」

「行くよ。一応付き添いだからね」


「そうか。じゃあ明日」

「うん。明日。……それから、ありがとう」


「ん?」

「格好いいって言ってくれたこと。陸上をやったことが無駄じゃなかったと今初めて思えた」


「……そうか。なら良かった」


 柿崎は肩まで上げた右手をひらりと振って教室から出て行った。その背中をオレンジ色の陽光が射していた。夕焼けが教室の壁を明るく照らしている。あたしはグランドを見下ろした。そこにあたしの居場所はもうない。けれど、さっきまでの虚しさや寂しさは感じない。


 何かが終わった。それだけのこと。あたしが終わったわけじゃない。


 あと3週間もすれば中学3年生。中学生活最後の1年間が始まる。これから何をして過ごそうか。うん、何だってできそうだ。まだ14年しか生きてないわけだし。


 そう、悔やむことなどなにもないのだ。あたしはグランドに背を向けて歩き始める。叶わなかった夢や憧れも、悔しかった記憶や失望も、初恋の淡い思い出さえもグランドに置き去りにして。


 ❏❏❏❏


 3月13日火曜日、あたしは弟を連れて体育館へ向かった。


 入口で柿崎と合流し、数十人もの見学者の間をすり抜けて最前列の席を取った。


「よろしくお願いします」


 挨拶とともに全体練習が始まった。「めーん」、「どーう」と掛け声が飛び交う中、部長の木田が練習の一つ一つを説明していく。弟は必死になってメモを取っているが、あたしはあくびをこらえるのに必死だ。早く帰りたい。


 ふと、部員の視線に気づいた。竹刀を振りながら、それをよけながら、ちらちらとこちらをうかがっている。なんでかなと思って初めて思い至った。


 女子、あたししかいないじゃん。


 いや、もしかしてあたしと柿崎をカップルと勘違いしてる? このままここにいるの、まずくない?


 あたしは帰る、そう言おうと隣の柿崎を見た。熱心に練習風景を見ている柿崎の横顔に先輩が重なった。


 どくん。


 胸の鼓動が大きく響いた。


 慌てて柿崎の袖を引っ張り、小声で話しかけた。


「あたしは、もういいかな?」

「ん? ああ、面白くないなら帰っていいぞ。弟のことは任せてもらって大丈夫だから」

「ごめん」


 形だけわびて、周りの人に道をあけてもらい体育館の外へ出る。


 ひんやりとした空気に触れて、まとわりついていた熱気が拡散していく。両腕を大きく伸ばして全身を外気にゆだねる。この感覚、まるで走っているときに四肢に絡みついてくる風に似ている。


 その懐かしい感覚に先輩のことを思い出す。何かがあたしの背中を押した。


 まだこの町にいるのなら会いたい。せめて気持ちだけでも伝えたい。


 勢いのままにスマホを取り出した。コール音が鳴る。1回、2回、3回。


『大原?』

「はい。大原です」

『どした?』

「東京に行くのいつですか? 見送りに行きます」


 電話の向こうで息を飲んだのがわかる。やがて、ためらいがちな優しい声が聞こえてきた。


『ごめんな。今から新幹線。これから東京へ行く。気にかけてくれたんだな。ありがとな』

「……先輩」


 あたしはいつも遅すぎる。卒業式の日に電話していたら。


『大原、陸上続けろよ。続けていたらまた会える。いつか、きっと』


 あたしは多分涙ぐんでいる。鼻水で鼻が鳴らないように気をつけて言葉を繋ぐ。


「はい。いつか、きっと」

『いつか、どこかの大会で会おう』


「先輩」

『何だ?』


 お元気で、と言うはずだったのに違う言葉が口をついて出た。


「先輩のことが好きでした」

『ありがとな。でも俺は何も約束できない。お前も約束しなくていい』


「……先輩」

『いいか。陸上を続けていたら必ず会える。忘れるなよ。じゃあな』


 通話の切れたスマホを握りしめてしゃがみこんだ。思いを伝えたことで何かを成し遂げたような疲れがどっと押し寄せてきている。


 このふわふわした感情はいずれ着地点を見つけて少しずつ薄れていくのだろう。それでも今だけは流され漂っていたい。


 先輩の言葉がちゃんとあたしの中で落ち着くまで。


 けして忘れることのないように。


 いつかもう一度走り出す勇気をはぐくむために。


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