第五話目 タケシ、号泣す
「PPIはH2ブロッカーより酸分泌抑制効果が高く、一日一回投与のため服薬コンプライアンスがよく、第一選択薬となる。しかし保険適用上PPIは胃潰瘍8週間、十二指腸潰瘍6週間という制限がある。維持療法時ではH2ブロッカーに変更する。維持療法では夜間の胃酸分泌抑制を目的にH2ブロッカーの半量を一日一回睡眠前に投与する。我が国で頻用されている粘膜防御因子増強薬に対する評価は一定ではない。胃潰瘍診療ガイドラインでも、単剤では第一選択薬として勧められない、とされている」
おおー、パチパチパチ、と一同から拍手があがる。
「まぁこのくらいはね。薬剤師としては常識ですよ。ふっはっは」
鼻高々に言ってるのは、今日からバイトすることになった薬大の大学院の少年である。漫画にでてきそうな瓶底メガネがトレードマークらしい。
「ちょっとは見習いなさいよ〜。薬を何も知らないタケシくん」
「……はい…」
調剤室のすみのほうで小さくなってしまったのは、新人薬剤師のタケシである。タケシはいまだに薬情をカンペにしないと投薬できないでいる。この間、機械の調子が悪くて薬情がプリントアウトされないでいたら、一人につき10分くらいかけて予習しないと投薬できなかったという非常に威張れない過去を持っている。バイト君とは同じ年なだけにこれからさぞかし比べられる事になるだろうと沈鬱な表情で調剤室のすみっこでたそがれているのだ。放っておいたらのの字を書きかねない。
「じゃ、さっそく投薬してもらおうかな」
言って、薬局長はトレイを一つ、バイト君に渡した。バイト君はトレイの中を一瞥すると、
「ああ、これはメチクールですね。メチコバールのジェネリックでビタミンB12の薬。末梢神経を修復する作用があり、適応外として特発性精子形成不全症、嗅覚性障害、睡眠相後退症候群などにも使用される薬であって他にメコバラミン、イセコバミン、コメスゲン、チオキネートなどがあります」
言い終わると、バイト君は瓶底メガネの縁をくいっとあげる。タケシを見て、かすかに唇の端を持ち上げた。それを見て、ようやくちょっと復帰しかけたタケシがしくしくと泣き出した。
「あー、また落ち込んじゃった。誰か―、タケシくんを励ましてあげてよー。これじゃ仕事にならない」
と、事務の主任さんが踊りながら調剤室に入ってきた。事務の主任さんは仕事と女優業を両立させているのだ。
「ターケシ先生っ。こんなこともあろうかと、私、プレゼントを用意してきたんですっ! これっ! きっとタケシ先生に必要だとお〜も〜う〜のぉぉっ♪ これなら投薬台の下に隠せるから、この間みたいに薬情がでなくなってもおーるおっけい!」
さっ、と手渡したのは、ポケット型の小さな薬の本である。こんなこともあろうかと、ってこんな事態に備えてたとは、一体何を考えて生活しているんだろう、というつっこみはベタであろうか。
そして、さらにタケシは傷ついた。調剤室のはしっこで、今度は泣きながら「くすり」の字を書きはじめた。うざったいことこの上ない。
「なんでもいいけどさぁ。みんな仕事しようよ…」
薬局長のつぶやきが、調剤室の暗い空気の中に響いた。
「プロブコールはLDL受容体を介さずLDLの異化の亢進、リポ蛋白の合成抑制、Cの胆汁への排泄の亢進などの機序を介して、LDL−Cを低下させる。ABCA1の抑制やCETP活性の亢進によりHDL−Cを低下させるが、この低下はC逆転送系の活性化に基づいて生じているので、本剤の欠点とはならないと考えられている。LDLの抗酸化作用も……」
「薬局長−。患者さんが困ってます」
主任さんが調剤室に駆け込んできた。
みんながなんとか仕事を始めて1時間くらいたったところであるが、一人、3分ほどで投薬が終わってるのに対して、バイト君はまだ一人目の投薬を終えていない。
さきほどまでは、血圧の薬についてのうんちくを語っていたようだが、今はコレステロールの薬のうんちくになっている。どうやら、メタボの患者さんらしい。そして、患者さんは目を泳がせていた。
「うーん。ぼくも困ったな。どうしよう」
「どうしよう、って私に話をふられても困りますよ。薬局長。なんとかしてください」
ちょっと考えた薬局長が、ぽん、と手を打った。
「そうだ。いいこと考えた」
「みんなー、ちょっと集まって」
その日も終わり、みんなが掃除をしている頃。
タケシは泣きながら辞表を書いていた。バイト君の博識っぷりを一日いっぱい見せつけられ、(もとから無いが)タケシのプライドと自信が虫の息のようだ。
薬局長の号令のもと、一同は調剤室に勢揃いした。
「重大な発表があります。今日から入ってくれた彼なんだけど、とうとううちの薬局を卒業することになりました」
おおー、と声が上がる。
薬局長が、患者さんの問診アンケートの裏に書いてあるらしい文字を読み上げる。
「この度、非常に優秀な成績をもって、我が、病気にばん薬局を卒業したことを認めます。これからも、ますますその知識に磨きをかけて医療に貢献してください」
コピー用紙で作った即席の卒業証書をうやうやしくバイト君に渡した。
「まっ、僕の実力からすれば、軽いもんですよ。ふっはっは」
「うんうん。たいしたもんだ」
みんなの拍手に見送られ、バイト君は去っていった。
タケシが呆然となっている。
二歳年下のセンパイが、ぽん、とタケシの肩を叩いて、
「タケシくん。タケシくんはずっとうちの薬局にいてね♪」
呆然となっていたタケシの頬が……ぽっと赤らんだ。赤…。ええっ??
今回みょーに影が薄かったタケシくんが、まさかこういう展開になるとは私も思いませんでした…。
次回へ続くか続かないかは謎に包まれています。