第十六話目 タケシ、教育す ~もう開き直るっきゃない編~
「おはようございます、タケシ先生!」
ぴっかぴかの笑顔で出迎えてくれた新人薬剤師。彼は一番乗りで出社し、パソコンの電源から分包機の電源まですべてをオンにし、そして待合室の掃除や観葉植物には水まであげたようだった。
「ああ、おはよう……」
朝一番からタケシのテンションはだだ下がりだ。
(花田さんかぁ)
昨日からそのことで頭がいっぱいだった。この笑顔という名の重圧感の中で自分は花田さんからの質問にきちんと答える事ができるだろうか。いやできない。もともと普段から満足な答えを出せないのだから今日に限って答えられるという事はあり得ないのだ。そう考えると、答えられないのも当然の摂理とも言える。
だが、あの新人薬剤師に期待された中での失敗というのは……。考えただけでも心が折れそうだった。
風前の灯火とも言えるタケシの心境はまるで変わらないままに薬局の営業は開始され、花田さんが一番にやってきた。冬場になると必ず真っ赤なコートを着てくるのが特徴だ。派手なコートを着てると、背が高いだけにやけに日本人離れした印象になる。
「これ、お願い」
と処方箋を受付に預ける。
「お薬手帳はお持ちですか?」
「持ってない」
短く言うと、待合室のソファに座ってスマートフォンをいじる。
タケシは事務さんからひったくるようにして処方内容を確認した。処方箋に記載されてる薬剤名は、ブロプレス、ラジレス、メバロチン、パリエットだった。最後の一つだけが初めての薬で、残りの三つはいつもの血圧の薬だった(よく来てる人の処方はだいたい覚えているものである)。
(よし。これは胃酸の分泌を抑える薬だ!)
カンペにしていた薬情の言葉をそのまま覚えただけのような知識だったが、まったくないのに比べたらタケシの心の準備もしやすいというものだ。
処方箋にはいつもの、「タケシ先生ご指名」という付箋が貼られていた。こういう付箋は「ポストイット」とも呼ばれている事にタケシは最近気づいたがそれはこの話ではどうでもいいことだ。
「素晴らしいですね!! タケシ先生が指名されてるんですね!! ドクターと違って担当性でも指名制ではない調剤薬局というに新風を巻き起こしている事に世界は気づいているのだろうか!!!!」
「新風ってもんじゃないんだけど、タケシくんミョーに気に入られてるのよねー。別に気に入られるようなすごい行いをした訳じゃないのに」
心底不思議そうに首を傾げる二歳年下のセンパイ。本当に不思議に思ってるのは自分自身だと訴えたい気持ちをこらえつつ、一応今日の治療薬で予習する。
(ふむふむ。逆流性食道炎、胃潰瘍、十二指腸潰瘍とかだな)
よし、とばかりに気合いを入れて投薬台に向かったら、
「タケシ先生、頑張ってください! 僕は後ろから先生の投薬姿を拝見しています!!!」
「後ろから見なくていいから、他の投薬やってよ」
「いいえ!!! この患者さんは先生の事をとても信頼してる様子! であれば、他とは違う何かが先生とのやり取りがあるはず!!! それを見逃してしまっては、僕の薬剤師としてのこれからの人生における大きな瑕疵となってしまいます!! ここはぜひ拝見させてください!!!」
……仕方ないので、そのまま花田さんを投薬台から呼んだ。どうせこの新人野郎には何を言っても効果はないだろうし。
「花田さーん」
「あら、こんにちは、タケシくん! 今日の薬なんだけどね、一つ追加になってるでしょ」
「そうですね。一種類増えてます。胃の薬ですね。胃の調子悪いんですか?」
言って、タケシは追加になった薬を軽く持ち上げて示す。
「それがね、胃の調子は悪くないのよ」
「へ?」
花田さんの言葉を耳で聞いた後、数秒経ってから認識した。認識したが、本当の所では意味が分かっていなかった。
想定外。
その言葉が赤いシグナルを伴って大きく明滅しているのを感じた。
パリエットが胃の調子も悪くないのに処方されている? 処方間違いか? 処方違いだとしたら、ここのDrに疑義照会しなければいけない。薬が間違ってるかもしれないというのを医者に伝えるのはとても勇気のいる作業である。医師によってはとてもプライドが高く、「いいから薬剤師は処方箋通りに薬出せばいいんだよ!!」という医師もまれーにだが存在する。どうしようどうしよう、と思いつつ、とりあえず花田さんの話を聞く事にした。
この結論に至るまで、時間にして1秒もなかったと思われる。
「胃の調子は悪くないんですね。胃薬が出るって話はお医者さんからは聞いてますか?」
「うん。胃薬でよくなる場合があるからって。でも納得いかないのよねぇ。どうして喉の痛みが胃薬でよくなるのかしら」
「喉が痛いんですか?」
まったく考えた事もないような方向からの訴えに、タケシの混乱は深まるばかりだ。
「そう。何日か前から喉が痛くて、手持ちの痛み止め飲んでたんだけどよくならなくて。実はね、先週娘の家に行ったのよ。ちょうど弟もそこにいてね、姪っ子も一緒にいたんだけど可愛くて可愛くてね~。まだ1歳にもなってないのに、歩いてるの!」
話が脱線していた。通常なら多少の脱線は仕方ないので聞いている。だが今回は、処方ミスが考えられる処方箋だ。なんとしてでも脱線させるわけにはいかない。
「喉はその時から痛かったんですか?」
「ああ、そうそう。その時になんか子供から風邪を拾っちゃったのか、喉が痛くなってね、娘の家の近くの内科に行ったのよ。そうしたら、風邪薬と痛み止めくれて。これでよくならなかったらかかりつけの病院に行くようにって。で、飲んだんだけどちっともよくならないの。だから今日診てもらったんだけど、事情話したら、じゃあ胃薬出しましょう、って。全然話が繋がってないと思うのよね~。ね、どういうこと? どうして喉が痛いって言ってるのに医者は胃薬なんて出したの?」
話を聞く限りでは、処方ミスではないようだった。医者は、意志を持ってパリエット、すなわち胃薬を処方しているらしい。
(これは困った)
なんで胃薬を出したの? まったくもって同じ事をタケシも聞きたかった。
しかも、後ろからは新人さんの熱視線が背中に直撃している。下手な事は言えない。
「え……っと、ちょっと調べてみますね。かけてお待ちになってください」
分からない事に直面した時の魔法の言葉がこれだった。とりあえずこれさえ言っておけば、たいがいの人は納得して座って待ってるし、自分は思う存分文献を当たって調べる事ができる。
トレイを持ってくるりと180度回転し、新人さんが立ってる横を「ちょっと失礼」と言ってすり抜け調剤室に入った。
まずは添付文書を読んでみようと棚を当たった。
やはり、最初に見たとおりに添付文書には胃潰瘍、十二指腸潰瘍などの適応の他、低容量アスピリンを継続して飲む場合に胃の調子が悪くならないように飲むような事しか書いてない。
そんな事をしている間も、新人さんの視線はこちらをロックオン。緊張のあまり、次に何をしようかすらも思いつかない。タケシは、こんなに自分がプレッシャーに弱いものだとは思っていなかったから余計に意識してしまう。というか、新人さんのこちらを見る目がなんだか前とは違うような……。
(ええっと、次にやるべきことは……)
緊張というストッパーがかかっている頭では、いつも通りの思考もままならない。ずっと硬直して考え続けていると、事務さんに声をかけられた。
「花田さん遅いって怒ってますよ」
「ええええ……」
とりあえず花田さんを宥めなくてはと投薬台に向かったら、投薬台から身を乗り出して何事か叫んでいた。
「ちょっといつまでかかってるの? 私今日忙しいのよね。薬剤師さんなんでしょ? 薬のことはなんでも分かっていないと駄目でしょ」
「あ、すみません。もうちょっと待っていただけますか?」
すいませんが、お願いします、と頭を下げ、再び調剤室へ。
(ええっと、添付文書を見て……じゃなくて、それはもう見たから……)
どくんどくんと心臓の鼓動を感じながらタケシの混乱は頂点を極めていた。
ふと視界の端に見えたものは、二歳年下のセンパイと新人さんが何か話している姿だった。こちらをちらちらと見ながらしゃべっている。時折二人が頷き合ったりもしていた。そして気のせいかもしれないが、新人さんの下唇が若干突き出ていた。
(うう……何を話してるんだ……)
会話が終わった後、新人さんは何かに背中を預けて腕を組んでた。背が高いせいで、妙な威圧感が出ていた。
(なんかやだなぁ………ん? あ! そうだ!!)
一瞬違う事を考えたのが良かったのか、神の啓示を得たかのように閃いた。
インターネットを使えばいいのだ!! 考えてみれば、普段はいつもそうしていた。添付文書で分からなければ、ネットだ。ネットには最新の情報が溢れている。
急いでパソコンにとりつき、「喉が痛い パリエット」で検索をかける。
が、……結論からいうとあまり芳しくはなかった。
まず、喉が痛い パリエットでは、胃癌で喉が痛い人の話とか、文中にパリエットと喉が痛いという言葉は出てくるものの、その二つの言葉に繋がりはなかったり。なんかこう、ぴったり今回の症状に当てはまるようなサイトはなかった……。
どうしよう。このままだと花田さんには何も答えられない。新人さんはいったい何を考えてこっちを見ているのだろう。
ちらりと新人さんの方を見ると、今度は椅子に座って足を組んでいる。足も長いので妙な以下同文。しかも今度は、目が半眼になってる気までしてきた。
どうしよう。もう手詰まりだった。
とその時、
「タケシくん、困ってるみたいね。新人さーん、タケシくんに正解を教えてあげて♪」
「え?」
「あの……、えっと、喉が痛いという人は、もちろん風邪の痛みとかだったら痛み止めで治るんですが、それで治らない場合には胃酸が逆流してる可能性もあります。胃酸が逆流していて喉までいってると、酸の影響で喉が痛くなったりもします。なので、痛み止めで治らない場合にはパリエットなどの胃酸を抑える系統の薬が用いられます。胃酸を抑えれば喉の痛みも治まるという理屈ですね」
立て板に水とはこのことだった。
「というわけで、そういう理由だということを花田さんに説明してあげてね」
後輩に教えを請うてしまった自分が情けないが、正答を得たのでタケシは複雑な気分になりながらも投薬台に向かい、同じ説明を花田さんにした。よく分かったわと喜んで帰っていった……。
投薬台に向かってる最中、後ろから、
「でもこれってよくある処方ですよね? ここでは珍しいんですか?」
「うーん、タケシくんはあんまり当たった事ないかもね-」
という会話が聞こえてきたのは意地で聞こえないフリをした。完全に、新人さんは呆れた口調だった。
投薬を終えて帰ってきたタケシは、誰にも目を合わせないようにしてパソコンに向かった。
それから一日、新人さんはタケシに話しかけることはなかった。
そして更に次の日も、その次の日も、話しかけないという訳ではないが、普通の薬剤師としてタケシと接していた。あの過剰な褒め殺しは、それ以来一度も聞いていない。
(これで良かったのか悪かったのか……)
自分の立ち位置を見失った気分だった。
文中には冬を思わせる表現がありますが、あまり気にしないでください。ソウサクジョウノツゴウというヤツだということで。