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第十五話目 タケシ、英語す ~本編(たぶん)~

(あれ?)

 新人薬剤師のタケシが、監査にまわってきた処方箋の名前を見て首を傾げた。

「シャーリー・アンドリュース」

 明らかに日本人の名前ではなかった。

(うわっ。ガイジンかなぁ)

 学生時代の英語の授業での、苦い思い出が甦ってきた。あんなアルファベットの羅列から何を理解しろというのかいまだに分からない。

「センパイ~。この患者さんって日本語分かると思いますか?」

 二歳年下のセンパイが、可愛らしく小首を傾げてこちらに視線を寄越した。

「そんなの分からないわよ。でも、質問票のアンケート(初めて来た時に書いてもらうアンケート表)にはちゃんとマルとかバツとか書いてあるから大丈夫なんじゃない?」

「あっ。なるほど!」

「でも最後の住所の所が記入ない上に自分の名前は英語で書かれてるから、もしかしたら日本語は多少は読めるだけで例えば話したりとかは全然できない可能性もあるわね」

 センパイの言葉の内容によりジェットコースターに乗ってるかのように気持ちが急上昇・急降下するタケシ。

「……どっちですか?」

「アタックしてみろ! ということよ。とにかく、日本語分からないんじゃないかとかそういう理由で投薬を拒否っちゃ駄目よ」

 言うと、センパイは次の薬のトレイを引き寄せて監査をし始めた。最近気づいた事だが、センパイは監査中に話しかけられるのを妙に嫌う傾向にある。もう話しかけるなという事か。

(仕方ない。いっちょやってみっか)

 シャーリー・アンドリュース(42歳・女性)にでている薬は白色ワセリン(皮膚を保護する薬)、クロマイ膣錠(抗菌剤)、強力レスタミンコーチゾンコーワ軟膏(痒み止め)。

(白色ワセリンは膣錠に塗布して使用、強力レスタミンコーチゾンコーワ軟膏は外陰部に塗布、痒みのある時に使用。一日二回まで……)

 タケシは、自分の心がぽっきりと折れる音を確かに聞いた。おもいっきりデリケートゾーンへのケアの薬だった。一応男であるところのタケシにはめっちゃ投薬しづらい。一体どのように説明したらいいというのか。相手が日本人だったとしてもこの薬の説明は無理のような気がタケシはしていた。

 辺りを見回してみるが、よりによって今日はとても忙しい日で、いつもパソコンの前に陣取ってる薬局長も今日は珍しく投薬の仕事をしていた。二歳年下のセンパイも薬局長もほとんど無言で仕事をしているが、明らかに殺気立っている……。これではとてもじゃないけど婦人科の薬だから代わってくださいとか言えない。

(逃げちゃ駄目だ逃げちゃ駄目だ逃げちゃ駄目だ……)

 逃げまくってるキャラの言葉を借りるのもどうかと思ったが、それでも唱えずにはいられなかった。

(よし!)

 自らを奮い立たせてトレイをしっかと持ち、待合室に向かって歩き出した。

「しゃーりゃー・あんりゅー……」

 動揺の塊で岩のようにカチコチになっていたタケシは、とりあえず最初の一言目から噛んだ。

「しゃ、しゃーりー・あんどりゅーすさん」

 やっとのことで(多少ぎこちなさもあるが)名前を呼ぶと、一人の女性が椅子から立ち上がってこちらに歩いてきた。綺麗な金髪・碧眼の女性で、背も高ければ胸も大きかった。日本語が喋れる気がしない雰囲気に、タケシは早くも逃げ出したくなりそうだった。

「こ、こんにちは」

 とりあえず一番始めに言ういつもの台詞を言ってみた。

「コニチワー!」

 迫力のある笑顔、そして同様の迫力を持った場違いなくらい大きな声で彼女は言ってきた。他の患者さんが一斉にこちらの方を向いた。だがそんな事は些末時だった。何せ相手が話した言語は日本語だったのだ。ちょっと微妙なニュアンスだったが、それでも日本語の形態をしており、日本語しか分からない自分にきちんと伝わってるのだ! 心理的負担の半分くらいは減った感じだ。

「ええっとですね、今日は三種類の薬がでてます」

「ワカタヨー!」

「まず軟膏ですが、こっちの軟膏は皮膚を保護する薬です。この膣錠に塗って使ってください」

「チツジョーてナンダ!?」

「えっ。……ち…膣錠というのは……。……膣に入れる錠剤で…」

「チツ!?」

 あまりにも大きな声で聞き返してくるので、タケシの方が恥ずかしくなってきた。膣錠とか膣とか叫ばないで欲しい。

「チツってナンダ!?」

「膣というのは……、えっと、肛門じゃないところで、下の…方の…」

「ムズカシイコトイウナヨーー!」

「ええっ」

 どうしろというのか。

(あっ。そうだ。思い出した)

「ちょっと待っててください。じゃすとあもーめんとぷりーず」

 調剤室に戻って、本を探し始めたタケシ。確かあそこに載ってたはずだ。数分もしないうちに目的の本を見つけて、急いでシャーリーの待つ投薬台に戻った。

「ここです!」

 指さしたのは、女性の性器が詳しく描かれたページだ。こんな短時間でこの本を見つけられた事に他意はない。たまたま昨日この本を見つけたからだ。いやほんとに。

 正確に膣の位置を指さしたタケシは、どや顔でシャーリーの碧眼を見つめた。

「オウ、vagi…」

 何事か囁き、シャーリーは納得した様子で頷いた。

 さて、次は強力レスタミンコーチゾン軟膏(外陰部塗布)だ。

「これは痒み止めです。痒い時に使ってください」

 外陰部を指さして、ここに塗ってください、とタケシは言った。この本があれば、口に出さなくても場所を伝えられる。まさにこの本様々だった。先日この本に出会って良かったと心から思う。ちなみにこの本との出会いの経緯は、本好きのセンパイ(ただし片付けるのは致命的に苦手)がちょっとした弾みで本の雪崩を起こしてしまった事に端を発する。たまたま開いて落ちてた本がこれで、センパイが向こう側を見ていたスキにじっと見入ってしまった。食い入るように見ていた時にちょうどセンパイが振り返ったので、慌てて本を閉じて本を持ってる事のカモフラージュのために手伝ってるフリをしたのだ。おかげで薬歴が全然打てずに残業という結果になってしまったのだがそれはまた別の話だ。

 とにかく、外陰部の位置を的確に相手に伝えられたとの自信を瞳に込めてシャーリーを見ると、彼女はなにやら軟膏をじっと見ていた。本なんか見ていない。

「どうかしましたか?」

「レスタミン……」

 軟膏に視線をがっちりホールドしたままで、彼女は呆然と呟いた。

「はい。レスタミンです」

 軟膏のチューブに「強力レスタミンコーチゾン軟膏」としっかり書かれているのだ。間違いない。

 が、シャーリーは顔の角度を変え、ビシッ、と効果音でも聞こえそうなくらいの勢いでタケシを睨み付けると、きっぱりと言い放った。

「コレ、チガウ!」

「は?」

「レスタミンチガウ!」

「へ?」

 レスタミンチガウとか言われて、二の句が継げないままでタケシはとりあえず処方箋と薬を見比べた。

 処方箋にも「強力レスタミンコーチゾン軟膏」と書かれており、軟膏にもしっかりと同じ文字が書かれている。

「ち、違いませんが……」

「チガウ!」

 タケシの頭の中ではクエスチョンマークが飛び交っていた。いや、頭の中に留まらず、目の前にもクエスチョンマークが見える。これは幻覚だろうか。自分はおかしくなってしまったのだろうか。いつの間にか自分は不思議の国とかに紛れ込んでしまったのだろうか。

(違う……。これは……)

 クエスチョンマークが一瞬目の前から消え、思わず周りを見渡してしまった。どこかに黒い眼鏡の男はいないだろうか。父親が好きでよく見ていた昔のテレビドラマを思い出す。何度目の再放送かは知らないが、そのくらい昔のドラマだ。どこからか違う物語に入ってしまったのだろうか。いっそのこと、黒眼鏡で黒ずくめの男が患者さんの中に紛れていたら気分がすっきりするだろうに。

 だが、そんな男はいなかった。

 そんなタケシの心を知らず、シャーリーは更に言いつのる。

「コレ、レスタミン!」

「……そうです…」

 とりあえず、機械人形の如く相づちを打ったが、タケシの心はすべての支えを失っていた。この物語に入ってしまった主人公はたいがいバッドエンドだ。自分はどんな最後を迎えるのだろうか。

「センセ、イッタ! ステロイドダス!」

「はい?」


「レスタミン、ステロイドチガウ!」


 タケシは自分の物語に戻ってきた事を感じた。完全に後ろに引いてしまっていた身体の重心を前に移動させる。

「先生はステロイドの薬を出すと言ったんですか? それで、レスタミンはステロイドじゃないからこれじゃない、と?」

「ナガイニホンゴワカラナイヨー!」

 いやいや、独り言です、とよほど言いたかったが、独り言の意味を彼女が解すかどうかは不明だったのでやめておいた。そして、シャーリーにも分かるようにと努めて説明を始めた。

「レスタミンはステロイドじゃない」

「センセ、イッタ!」

「すたぁぁぁっぷ!!!」

 彼女の声を手と共に遮って、タケシは強引に続けた。

「ばっと、強力レスタミンいずステロイド!」

「…what?」

 シャーリーは首を傾げた。

「じゃ…じゃすとあもーめんつ!」

 タケシは調剤室の中に戻り、軟膏のある場所へと向かった。薬局長とセンパイが何事かとこちらを見ていたが説明しているヒマはない。

(あった、これだ)

 軟膏の棚から目的のボトルを見つけた。5gとかのチューブではなく500gの軟膏が詰まっているボトルで、通常はここから処方箋に記載されているグラム数を測って容器に詰めて患者さんに渡すものだ。肌色のボディに白いキャップのボトルを掴むと再び調剤室から出てシャーリーのいる投薬台に戻る。

 あまりの大声のやり取りに、患者さんがガン見しているがそれも放っておく。

 そして、ボトルに書いてある文字を指で示しながらシャーリーに告げた。

「これ、ステロイド違う」

 レスタミンという文字の続きにある「クリーム」の文字もしっかり見せた。そして次に、チューブに書いてある文字を指で示す。特に、「強力」の文字だ。

「ばっと、これ、ステロイド」

 碧眼の大きな目を丸くして、シャーリーは指し示している文字を見ていた。

 レスタミンと名のつく軟膏は二種類ある。一つは「レスタミンクリーム」。こちらはシャーリーが先ほどから何度も言っているようにステロイドではないただの痒み止めだ。だが今回処方されてるのは、「強力レスタミン軟膏」。こちらはレスタミンの他に、ランクは弱めだがステロイドが混ざっている。恐らく、強力の漢字が読めなかったのだろう。読めたとしても、レスタミンと名がついた塗り薬が二種類あるなんて事は知らないだろう。

 タケシは繰り返した。

「レスタミンクリーム、ステロイド違う! 強力レスタミン、ステロイドある!」

 クリームの文字と強力の文字を丸で囲むように指でなぞる。日本語が変な気がするが、もうどう言ったら通じるのかまったく分からないのでやけくそである。

「oh……I see!」

 頷きながらシャーリーは言ったが、タケシの英語力では意味は分からなかった。が、目が口ほどに明瞭に物を言っているので心の内は伝わってきた。今度こそタケシは、きちんと伝えられたという自信を瞳に込めて頷き返した。投薬台の下で、拳を握る。

 ――と、ぱちぱち、と手を叩く音が待合室に響いた。いつの間にか、周りが水を打ったような静けさに満ちていた。その静寂を一つの拍手が破り、やがていくつもの拍手が重なって広がっていった。

「よ、にーちゃんやったな!」

「グローバルだ!」

「よく頑張った!」

 拍手の中からいくつかの激励が飛んできた。

 その言葉でうっかり冷静になってしまったタケシは、大声になってしまっていた事に気づく。恥ずかしさのあまり、顔面が炎に包まれたかのように熱くなった。隣の投薬台でも、薬剤師と患者さんはいたが投薬はストップしていた。

(晒しプレイじゃん……)

 永遠に続くように思われたが、隣の薬剤師が説明を始めた声が聞こえてきて、薬局長が調剤室を出て次の患者さんの名前を呼ぶ。たまたま歓声を上げていた患者さんだったらしく、場の興奮は少し鎮まってきた。そしてそれを契機に声や拍手も静まって、ようやく周りがいつものテンションに落ち着いた。タケシもやっと落ち着いてきた。

 最後の白色ワセリンの説明はすぐに済んだ。「白色ワセリン」と言ったら「OK」とすぐに返事がきた。どうしてOKなのかタケシにはさっぱり分からなかったが、とにかくOKなのだったら問題はない。

 会計を済ませて、「おだいじに」とタケシが言うと、「アリガトー」とまた大きな声で言ってシャーリーは薬局を去っていった。

(……終わった…。ようやく終わった…)

 ほっとした瞬間、どっと襲ってきた疲労で身体が鉛のように重たくなった。疲労度は高かったが、同じくらいの達成感も身体に満ちていた。自分に出せるすべての力を出し切ったと断言できる。何度も息を継ぎながら、ゆっくりと調剤室に戻った。少しでいいから休みたかったから、戻ったら座って薬歴でも打とうと思っていたタケシの目に映ったのは……。

「……げ」

 監査台に所狭しと並べられたトレイだった。そういえばさっきの患者さんの声は、かなり多かった。マラソンとか試験勉強なら、このような達成感を得た瞬間にすべてが終わって解放されるが、どう考えてもそんな雰囲気ではなかった。いきなり頭を切り換えて、次の患者さんの投薬へと向かわないといけないという現実にタケシは打ちのめされそうになった。現実……いや、これがお金をもらって働くという事の恐ろしさなのだろうかと思った。

(逃げちゃ駄目だ逃げちゃ駄目だ逃げちゃ駄目だ)

 再度呪文を唱えて、タケシは机の上に置いてあるマイ水筒で冷たい水を呷ると、深呼吸して次のトレイに手を伸ばした。


「終わった……」

 やっと患者さんが途切れたので、タケシは椅子に座ってマイ水筒の水をごくごくと飲み下した。

「いやー、ひどかったねー」

 薬局長が涼しい顔で言うと、そうですねー、とセンパイも涼しい顔をして同意する。一人で疲れ果ててる自分が馬鹿みたいに思えるほどに、二人は冷静だった。もうパソコンに向かって薬歴を打つ気力もなかった。患者さんの数だけ入力しなくてはいけない数が増えるのもテンションが下がる原因の一つだった。せめて、頑張って患者さんをさばいたら入力する数は減っていくとかそういうルールがあれば頑張る気も沸いてくるだろうに……。

 大きく溜息をつくタケシに、センパイが可愛い声で言ってきた。

「あの外人さんは大変だったわね」

「……ええ。大変でした」

「レスタミンっていう薬を知らなければあんな事にはならなかったのにね」

「まったくもってその通りです」

 中途半端に物を知っている患者ほどやっかいなものはない、という事を実感した。

「でもほんとに頑張ったわね。すごいすごい」

「ありがとうございます」

「でもね」

 ぢゅるぢゅる、という音をたてて紙パックのリンゴジュースを飲み干したセンパイが神妙に言ってきた。

「ああいう場であんなに大きな声を出したのは、まぁああいう状況だったとしてもこれからはもうちょっとトーンを落としてくれるととても助かるわ」

「……すいません。…つい」

「ま、気持ちは分かるからいいとして、それよりももっと大切な事があるの」

「な……なんですか?」

 意外な台詞が続いたので、タケシはどもりつつ聞き返した。

「容器代もらわなかったでしょ。私、見てたんだから」

「…………」

(気づかれてた……)

 冷たい汗を首筋に感じる。

 白色ワセリンは、先ほどのレスタミンクリームと同じくボトルに入っているもので、処方箋の指示の分量だけ容器に詰めてお渡しするものだ。そしてここの薬局では、その容器を渡す時には実は薬代とは別に貸与代としてお金をもらわなくてはいけない決まりになっている。金額は容器の大きさにはよらず一律50円。そしてその容器が不要になった時に薬局に持ってきてもらえれば50円お返しできる。処方箋を一緒に持ってきたら薬代から50円×容器の数を引いた金額をもらい、処方箋を持ってこなくても容器だけ持ってきてお金を渡す事もできる。

 じっとセンパイの冷たい視線が注がれた。

「……だ…、だって、もうレスタミンの説明で僕の気力はすべて使い果たしちゃったから、あれ以上は無理ですよ。50円もらうけど持ってきてくれれば50円返します、なんてなんか伝わらない気がしたし……」

「言い訳」

「………ほんとにマジ無理ですって」

「無理だったら説明しないの? シャーリーさんが一回しか来なかったら別にいいけど、何度も何度も来たらどうするの? それで、何かのきっかけで誰かが容器だけ持ってきてお金をもらってるのを見て、ああ、容器を持ってきたらお金がもらえるんだ! と思ってシャーリーさんも、お金ください、とかって容器を持ってきたらどうするの?」

「……その時に説明しますよ」

「今日のいきさつを知らない事務さんが普通にお金あげちゃったら説明できないわよ」

「うぅ……」

「シャーリーさんだけ特別にお金をあげ続けるの?」

「いや……その……すいません……」

 紙パックをつぶしつつセンパイは立ち上がった。

「そして、シャーリーさんがお金をあげてるのを見た他の患者さんが、容器をもらってる時にはお金を払ってない事に気づいちゃったらどうするの? お金の恨みは恐ろしいわよ」

「はい。ほんとにすみません」

 その後も、長々とお説教は続く。あまりの長さに耐えられず、もうタケシの心は宇宙の彼方に飛んでいっていた。空返事だけを機械的に返す。

「とにかく、これとこれは説明しなきゃいけない、っていう設計を最初にたてておいて、ちゃんとそれに沿った服薬指導をしなきゃ駄目なのよ」

「ほんとにまったくその通りです……」

 これでお説教は終わるかな、と思ったら、「それと、」と続けたので内心で大きな溜息をついていると事務さんがセンパイを呼んでいたので「じゃあ今度から気をつけてね」と告げてお下げに結んだ髪の毛を揺らして去っていった。


「じゃ、お疲れ様です~」

「お疲れ様です~」

 タケシにとっては、ガイジンに振り回されたあとにセンパイの説教が延々と続いたという散々な一日だったが、みんなにとってはごく平凡な一日だったようだ。それが「お疲れ様」の声のトーンに顕著に表れていた。女優の二足わらじの事務さんはこれから練習があるようで、いそいそと帰っていった。

 ――と、

「お疲れ様でした!」

 いつも折り目正しく挨拶もきちんとして帰る(可愛いスマイル付き)センパイが、珍しく声を荒らげて、ドアも大きな音を立てて閉めて帰っていった。

「……なんだ?」

 思わず疑問を声にしてしまったタケシ。ノミの心臓が驚きのあまり身体から出ていってしまいそうなくらいだった。それくらいに珍しい事だった。

「……あれ?」

 それ以上に驚いたのは、他の職員の反応だった。普段とあんなに違っているセンパイの態度を目にしても、誰も驚く顔ひとつ見せない。それどころか、お疲れ様でした~、と何事もなかったように言っている。

(オレがおかしいだけなのかな?)

「タケシくん」

 ぽん、と肩を叩かれて振り向くと、そこにいたのは薬局長だった。白衣を脱ぐと、どこにでもいそうなごく普通の青年のように見えた。

「ちょっと飲んでいかない?」

「は……? はい」

 突然の誘いに戸惑うタケシ。散々な一日が終わったかと思ったらセンパイのあんな態度、そしてそれに対する他の職員の態度。全然終わってなかった。そして最後には、薬局長からのお誘い。タケシは思わず、やっぱりここはタ○リのいる世界なんだろうか、と世界観を訝しんだ。

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HONなび
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