第十二話目 タケシ、披露す ~猫踏んじゃった編~
「ええと、本日はお忙しいところお集まりいただき、誠にありがとうございました。では、みなさま揃いました所で、薬局長先生に挨拶をお願いしたいと思います。よろしくお願いいたします」
禿頭のメーカーさんがぺこぺこと何度も頭を下げながら言う。汗でもかいてそうな中年のオヤジだ。
「はい。今年もみなさん頑張りましょう。かんぱーい」
『かんぱーい』
実にあっさりとした薬局長の挨拶が終わると、みんながビールやカクテル、ジュースなどのコップを傾けた。新人薬剤師のタケシも緊張を隠せないままにビールをあおる。
今日は新年会だ。ちなみに、時は二月も末になったあたりだが、どうしてここまで新年会が遅れてしまったのかは誰も知らない。
ここはちょっとしたバーのようになっていて、あたりは雰囲気を出すためなのか照明が薄暗くなっている。どっちかというと二次会に行くような場所のようだ、とタケシは思ったが、何しろ初めての会社の新年会なものだから、こんなものかもしれないのかな、とも思う。隅の方には、薬局長が言った通り、アップライトピアノが置いてあった。グランドピアノじゃないことにちょっとがっかりしたが、これもまぁ、こんなものかもしれないのかな、と思う。
周りをきょろきょろと見渡すと、事務さんは事務さんでだいたいかたまって楽しそうに喋っている。事務さんのほとんどがジュースのようで、女優と二足のわらじを履いている主任さんだけがビールを飲んでいる。
スーツが意外に似合ってる薬局長と談笑しているのは、二歳年下のセンパイと禿頭のメーカーさんだ。二歳年下のセンパイは、ハッキリ言って可愛かった……。長い髪の毛をアップにして、左右の耳のところに一束ずつ横髪を下ろしている。耳にはピアス。仕事の時はピアスなんてしていないからますます新鮮に感じる。服も、上は真っ白の布地をたっぷりと使っていて、そこに自然に入ったギャザーがいくつか入ってることにより、ふんわりとした柔らかい印象になっている。下は短めのデニムを穿いていて、そこからきゅっと引き締まった足首が見えている。ちなみに上も袖を軽く捲られていて、細い手首が見えている。それによって、白い布地の中はさぞかし細い肢体なのだろうと色々な想像をかき立てられる。
一人だけここまで描写が細かかったらみなさんはおわかりかと思うが(薬局長なんてスーツが似合ってる以外のコメントはナシ)、タケシは、普段は見ることのできない二歳年下のセンパイのお姿に惚れ惚れとしていた。もちろん、そんなにじろじろ見てることが露骨にわかると恥ずかしいので、視界に入れておく程度で済ましておいて、ひたすらビールを堪能してるかのように見せかける。ほんとは、視界に入れておくどころか、ガラスケースにでも入れておきたいくらいだがそんなことを考えてるということも心の内に秘めておく。
「タケシ先生、ビールをお注ぎいたしますね」
すすすっと隣に寄ってきたのは、長い髪の毛をさらっと肩に下ろしてる女性だ。スーツを着てるということは、メーカーの人なんだろう。薬局長以外でスーツといったらメーカーさんと相場が決まってる、ということを二歳年下のセンパイからここに来る前に教わった。
柔らかい笑顔に、タケシの鼻はだらしなく伸びてビールのグラスを差し出した。
「タケシ先生、お酒にお強いのね」
「いやぁ、そういうわけじゃないんですけど……、いや、まぁ、そこそこにです」
「うふふ。謙遜なさっちゃいけないわ。挨拶が終わってからまだ30分しかたってないのに、手酌でビールをすでに四杯もお飲みじゃないですか」
数えられていた。
「なんか変な気分っすね。僕よりも年下みたいに見えるのに、敬語なんて。ため口でいいっすよ」
実は結構酔っていたタケシが軽口を叩いた瞬間に、柔らかい笑顔に亀裂が走った気がした……のはタケシの気のせいだろう。……たぶん。女性に歳の話は禁句である。
それでも彼女はなんとか体勢を立て直して言葉を紡ぐ。
「まあぁ、お上手ね。次期薬局長殿」
「え…っ」
今度はタケシの表情に亀裂が走る番だ。亀裂といっても、悪い意味ではない。
(じきやっきょくちょう?)
亀裂が走ったその中からは、だらしなく伸びた鼻が可愛く思えるほどに、その上をいくほどだらしなく緩んだ表情が現れた。
(も……もしかして、僕は次期薬局長として期待されてるのか!? そういえば、薬局長がいつもパソコンばかりいじってて全然こちらを見てくれてないというのは、もしかして、薬局長がいないという場面を想定して、その上で僕がちゃんと仕事をできているかということが試されていたのか? そして、メーカーの人にその話がいってるということは、その試験に僕が無事合格したということなのかっ!?)
ゴゴゴ、とタケシが燃え上がった。
やっぱり男として生まれてきたからには、昇進の二文字に憧れる。自分が指揮し、皆が自分の手足となって動く。これほど萌える……じゃない燃えるシチュエーションはないぞ!
「あの……、タケシ先生?」
そうしたらきっと、二歳年下のセンパイも自分のことを尊敬の眼差しで見てくれることうけあい!
そんでもって、ゆくゆくは上司と部下という役職をを超えた関係に!!!!!
「うーん? えっと、まぁ、……いいかな、新人みたいだし、このくらいおだてておけば大丈夫かな」
小さく言ったメーカーさんの言葉など、もうタケシの耳には入っていなかった。
タケシの目の前には、自分が日経IDにでかでかと写真が載ってる光景が浮かんでいた。言葉に出してしまったら、ちょっと可愛そうな病気を持ってる人として認定されて昇進など夢に見るくらいが関の山になってしまうだろう。
(そうだ。そのためには、まず、メーカーさんと仲良くならなくちゃ!)
やっとちょっと現実じみた考え方になり、タケシは、さっきビールを注いでくれたメーカーさんがいた場所に目をやった。精一杯、賢そうに見えるように。そして、人の良さそうな笑みをこれまた精一杯浮かべて。
「あれ?」
目の前には誰もいなかった。
きょろきょろとあたりを見たら、美人のメーカーさんは薬局長のところにいて日本酒を注いでいた。そしてしきりに何かを囁いている。
「やっぱり薬局長様がいらっしゃってこその病気にばん薬局ですよね。貴方以外の薬局長なんて考えれませんわ。貴方がいなくなることは、すなわち薬局の衰退。いつまでも元気でいらっしゃってくださいね」
(アハハ、笑顔が……彼女の素敵な笑顔が……涙で滲んで見えないや……)
短い幸せだった。噛み締める余裕もなかった気がするほど短い。
「すいませーん、日本酒、めっちゃ強いのお願いしまーす!」
叫んで、ビール瓶を逆さにする。最後の一滴までも飲みきる体勢だ。
「ちょっと、タケシくん、飲み過ぎじゃないの?」
「うひゃっ」
変な声を出してしまったのは、二歳年下のセンパイがいきなりお絞りを額に当ててきたからだ。
「さっきから見てたら随分飲んでるみたいじゃない。タケシくん、明日って仕事だっけ?」
「仕事っすよぉ。バリバリ働きますよぉ」
「ぐでんぐでんじゃない……」
「だいじょーぶっすよぉ。もうね、ガンガン働きますよ」
「どうしたのよ? そんなやる気いっぱいのタケシくんなんて気持ち悪い……」
「………」
タケシは深くショックを受けた。やる気いっぱいを、気持ち悪いと言われるなんて…。
メーカーさんによって受けたショックと今のショックが重なって、再起不能な感じ。ほぼ自業自得に近いものがある気がするのは作者だけだろうか……。
「………オンガクカになろうかな…」
「えっ、何を世捨て人風に言ってるの~」
「いいんです……。僕なんて、こういう人間関係の軋轢に弱い僕なんて……。芸術家になるしかないんです……」
芸術家をかなり冒涜した言い方だったが、二歳年下のセンパイはそれでも優しく言ってきた。
「タケシくんに、音楽家は無理じゃないかな」
語尾に、えへっ、という感じを含めつつ、爆弾発言。
「………」
もう何も言えなくなってるタケシに、センパイは更に言ってきた。
「だって、結局は猫踏んじゃったでしょ? それだったら、今のまま薬剤師続けたほうがいいんじゃないかなぁ。何人か患者さんにいるよ? あの若い新しい子、なんか愛嬌があって可愛いね、って」
「ねこふんじゃったをなめるなあああああああああ!!!!!」
「え?」
タケシは、ずかずかとアップライトピアノに向かって歩いていった。
「はーいはいはい。ちょっとした余興でーす。ウチの新人が、なんか弾くみたいだよー」
いいタイミングで薬局長がみんなの興味を引いてくれた。
ド・レ・ミ……シド、と一オクターブ分弾いてから、右手でドミソドの和音、左手でドからドの一オクターブをすべてアルペジオで鳴らす。ピアノを弾く人というのは、自分の楽器を持ち歩けるわけではないから、そこそこの場所によって様々なピアノのクセに対応できなくてはいけない。これは、タケシなりのピアノの感触の確かめ方だ。発表会とかならリハーサルで確かめることができるが、こういう場では、いかに早くそこのピアノの特性を掴めるかにすべてがかかっている。
そして、弾いた。
猫踏んじゃった、を。
いわゆる有名な「猫踏んじゃった」という曲は、本来なら猫があっちこっち走り回って逃げているところを捕まえようと頑張る、という構成になっている。猫が逃げているシーンをとてもおどけた感じに弾くのがポイントだ。
だが、今タケシが弾いている「猫踏んじゃった」はちょっと違ったアレンジだ。ピアノの音を上から下までたっぷりと使って演奏する。そうすることで、表現力の幅が段違いに拡がる。更に和音は極力抑えて、アルペジオに変える。単純な和音も、アルペジオにするとガツンと迫力がある中にも、美しさも表現できる。
じゃらん。
最後の一音を弾き終わった後、一拍あけて、後ろから大きな拍手と喝采があがる。
「すごーーい! タケシくん、すごいすごい!! こんな素敵な猫踏んじゃったは初めて聴いた!」
「タケシ先生素晴らしいです~!!!」
二歳年下のセンパイの声の後に続いたのは、女優と二足のわらじを履いている事務主任さん。さすが舞台で鍛えてるだけあって、声に張りがある。
弾き終わって、まぁそれなりにきっとすごいとは言われるだろうとは思っていたが、思った以上にみんなが興奮していたのを見て、なんだかタケシは恥ずかしい気分になった。酔いも一気に冷めた気がした。
「やー、……どもっす。最近はいろんなアレンジの猫踏んじゃったを弾いてたんですけど、一応ここはバーなので、それなりに雰囲気がでるものを選んで……」
「いやーもうタケシくん、君、薬剤師辞めなさい」
「え…?」
薬局長のいきなりの一言に、タケシは、顔に冷水を浴びせかけられたという表現の意味を実感した。ついでに背中にも冷たい水が……。
「タケシくんは薬剤師やってるのもったいないよ。なんかこー、もっとそのピアノの腕を活かせるような仕事をしたほうがいいんじゃないかなぁ」
『そうですよねぇ』
そこにいたすべての人間が、深く頷く。
「え……?」
「もうね、退職願とかは僕が書いておいてあげるから。君は、何もやらなくてもいいよ。明日からもう来なくていいから」
「ええ……??」
タケシの困惑をよそに、場は新年会からタケシの送別会になった。
激しく盛り上がるタケシの送別会に、事務主任さんは、タケシの今までについて振り返っている。初めての投薬、調剤で電卓を使ったこと、初めての小分け、等々。
ちょっと聞いてる分には少し涙がでてしまうかのような語り。現に、薬局長あたりは結構感動してるのか目元に光るものが……。
だが、タケシの内面はそれどころじゃない。
(なんで僕、自然に辞める的な流れになってんの?)
誰か助けて! と心の内で叫んでいたが、誰にも届かず、会はお開きとなった。
とぼとぼと、呆然となったままタケシは夜を過ごし、次の朝になった。
いつもの仕事の時間に、自然に目が覚めてしまった。
(ああ、でも仕事には行かなくてもいいんだな)
と半ば悟った感じで考えたタケシは、ピアノに向かった。もう猫踏んじゃったは弾くまい、と思い、別の曲を選択する。
と、ケータイが鳴った。
薬局からの着信だ。着メロは、猫踏んじゃった。
(あとで着メロ変えてやる)
と思って電話にでると、二歳年下のセンパイの声が聞こえてきた。
「ちょっとー、タケシくん、起きてるじゃない。仕事よ。どうしたの? もう遅刻だよ?」
「え? だって、もう来なくていいからって薬局長に……」
「何言ってんの。あんな酔っ払いの戯言なんて流しなさい! 猫踏んじゃった、を理由に退職なんてされてたまるもんですか。早くきなさーい!!」
「わ……わかりました!」
やはり、自分の居る場所は薬局なのだ。自分は薬剤師なのだ、と再確認した時でもありましたとさ。