第九話目 タケシ、病に伏す
「はい…。すいません。はい。お願いします」
がちゃ。
タケシは神妙な顔をして受話器を置いた。
調剤薬局に勤務してはや一ヶ月になろうとしているが、あり得ない事態に落胆の色を隠せない。
落胆。
あってはならないことだ。
なぜこんなことになったのかを思い出すたびに、重たいため息がこぼれる。
どうしてこんなことになったのだろう。
この思考の永遠のループ。
なぜこんなに落ち込んでいるのかというと、タケシは風邪を引いたらしいのだ。
頭が痛い。吐き気がする。熱はない。特に咳がでるわけでもないが、とにかく頭が割れるように痛いのだ。これではとても仕事はできない。ミスをしたら大変だ、とばかりに欠勤の電話を入れたのだ。
風邪くらいひくだろう、と思っているそこのアナタ。
タケシは学生時代は無遅刻無欠席の皆勤賞を誇っていたのだ。
履歴書に書く「頑健」の文字は自らを象徴するにふさわしいものだと思っており、日頃からそれを維持するためにいろいろな努力を怠っていなかった。
乾布摩擦は毎朝の日課であり、ダイエットは潤滑に日常を送る為のスパイスであり、ウォーキングは友であった。
そんなタケシが、体調を崩したのだ。
原因はなんとなくわかっていた。
昨日、歓迎会があったのだ。タケシの歓迎会である。
その時に軽くお酒を飲み、ほろ酔いで外を歩いたのだが、北海道の夜は薄着で歩くにはまだ寒すぎたのだろう。くしゃみを何度かしたのを覚えている。
そして朝起きてからはこのひどい頭痛と吐き気だ。
何か悪い病気にでもなったのかもしれないと思ったくらいだ。
(とにかく眠ろう)
眠りが何よりの薬であることを、タケシはまだ少ない薬剤師経験から学んでいたから。
病院に行くのは熱が上がってからでもいいだろう。風邪は引き始めが肝心だというではないか。とにかく今は、眠ろう。
体が鉛のように重く、タケシはほどなくして微睡みの中に飲み込まれていった。
次にタケシが目覚めた時、時刻は午前11時をさしていた。
2時間ほど眠ったかもしれなかった。
夢を、見た気がした。
学生時代、勉強してたときの夢だった。
なぜ今頃こんな夢を見るのかと思ったが、体調が悪い時というのはこういうものなのかもしれない。
昔を懐かしむ、なんて、ちょっと縁起が悪くて笑うに笑えなかった。
まるで――、
(死にいく人みたいじゃないか)
タケシはとことん弱気になっている自分を感じた。
たかが風邪。
されど風邪。
風邪は万病の元。
嫌な想像を振り払うようにしてタケシは立ち上がった。
台所に、妹が作ってくれた朝ご飯があったはずだった。
タケシは妹と姉との三人きょうだいで、この家にも三人で暮らしている。
タケシの親は片親で、物心ついたときから母親がいないのだが、タケシが卒業するのを待って、父親はオーストラリアに渡ったのだ。
そしてそれからは三人で暮らしているのだが、4つ歳の離れた姉は滅多に家にいない。
外で何をやっているのかタケシにはわかりかねたが、しっかりしてる姉のことだからたぶんなんとかうまくやっているだろう。
一つしか歳の離れてない妹は、どちらかというと友達みたいな関係だ。
性別の違いなどもの笑いの種にしかならないような、あったかい関係。
タケシはそんな家庭環境に、不満はなかった。
今日朝ご飯を作ってくれたのだって、好意からの行動だ。
普段はご飯が一緒になることはあまりないから、各自で食事を用意し食べている。
今日は病気の自分を思いやってご飯を作ってくれている、そんな妹がタケシは大好きだった。
重たい布団を押しやって、タケシは階下に降りる。
そこに用意されていた食事は――、
(し……食パン?)
食卓テーブルに置かれていたのは、お皿に乗った食パンだった。
申し訳程度にマーガリンがおかれていたが、よく見たらイイ感じに室温に戻されたマーガリンはちょっと溶け気味だった。
そして走り書きのメモに書かれていた内容は、
『ごめん、今日遅くなる』
病気の、
自分を、
思い……思いやって……
(ねぇな……)
なんだか泣きそうになった。
何よりタケシの涙腺を刺激したのは、自分はマーガリン派ではなくピーナツバター派であることを妹が知らなかっただろうことだ。
タケシはマーガリンを冷蔵庫にしまい、ピーナツバターを台所の隅から持って来てパンを焼いて食べた。
吐き気がして何度も戻しそうになったが、風邪を治すためには食べて体力をつけなければならない。
大量の唾と一緒にパンを飲み込んだ。
なんだか冷たい、スッキリとしたものが飲みたくなって、飲み物を探すべく冷蔵庫を開けた。
と、中にはミネラルウォーターがあった。
妹にミネラルウォーターを飲む趣味はない。飲むのはこの家ではタケシだけであり、そのミネラルウォーターも昨日で切らしていたはずだった。
妹が買ってきてくれたのだろうか?
風邪をひいた自分のために、水分をたくさん摂れるようにとミネラルウォーターを?
マーガリンとピーナツバターだって、もしかしたら急いでいたため間違えたのかもしれない。
考えてみれば、そんなことなど些末時だ。
妹がミネラルウォーターを買ってきてくれた、それだけで真心は充分ではないか。
マーガリンを見た瞬間芽生えた妹への猜疑心が、音を立てて崩れていくのを感じた。
(受け取った……受け取ったぞ妹よ!!!!)
タケシはガブガブとミネラルウォーターを飲んだ。
ラッパ飲みした。
「あー!!!! お兄ちゃん何飲んでるのよ!!!!」
と、後ろから頓狂な声がした。
妹だ。
「ちょっと、その水、サークルへの差し入れだったのに」
「え?」
「やだ、もう半分しか残ってない……」
ミネラルウォーターを奪い取られた右手をしばらく眺めていたタケシは、喉の奥から声を絞り出した。
「今日、遅くなるって……」
「うん。サークルでね、遅くなるんだけど、水忘れてったからさ、慌てて戻ってきたの。そしたらお兄ちゃんが飲んでるでしょ? 信じられない。今度にするから、絶対に弁償してよね。あ、パン、食べたんだ。もう悪くなってるでしょ? それね、あたしの職場にあったヤツなんだけど、悪くなりそうだからもらって帰ってきたの。お兄ちゃん好きでしょ? パン」
「……あぁ……」
「まったく。ほんとに恥ずかしいわねぇ。25歳にもなって二日酔いで起き上がれなくなるなんて」
「……ふつか…よい?」
「そう。さっきお兄ちゃんの職場に寄ってきたの。ほら、昨日すっごい酔って帰ってきたじゃない? そのときに、ほら、なんていったっけ、あの優しそうなセンパイさん。女性の。あの人がずっと面倒みててくれたみたいだからさ、一応挨拶しとこうと思って。ほんと恥ずかしかったわぁ。昨日は」
「昨日……?」
「お兄ちゃん、記憶にないんでしょ。なんかケタケタ笑ってたけど、目が焦点合ってなかったもん。あ、そうそう。薬局のセンパイさんからお見舞いもらっておいたわよ。スイカ。初物よねぇ。ほんと、気が利くわね、あのセンパイさん」
妹が持っていたタッパーには、大量のスイカが詰められていた。
そしてメッセージもあった。
『水分たくさん摂って、早く職場復帰してね』
タケシは急いでいろんな情報を整理した。
いろんな情報が一気にやってきた気がする。
自分は、二日酔いで、風邪なんかではなく、パンは、悪くなりかけていて、ミネラルウォーターは、妹ので……。
今度こそ、タケシは熱を出して卒倒しそうになった。
薄れゆく意識の中で、タケシは、頭痛と吐き気が二日酔い特有の症状であることを思い出していた。