漆黒の闇の扉 〜開〜
「終ったのか?」
サンはティアの表情を伺うようにそう呟いた。
ティアは閉じた翡翠色の瞳を手で押さえると、その場に崩れるように膝を付く。
「ティア!」
「来るな!!」
サンに向って、ティアは激しく叫んだ。
「まだです。私の中で闇王は意思を持っている……」
ティアはそう言うと静かに真紅の瞳を閉じ、自分の中に存在する闇王に向けて気を放つ。ティアの体の中を冷たい感覚が走り、闇王の悪しき気配が持ってる力を動けないように気で縛り付ける。
「サン、実態があれば、その退魔の剣で闇王を殺せるはずです。私のこの力は闇王の存在とまったく同じ物。私の中に封印する事はできても、消滅をさせる事はできない……ですから、私を刺しなさい」
ティアはそう言うと、サンの瞳を真っ直ぐに見つめる。ティアの瞳はまるで穏かな湖に映る月のように静かに揺れていた。
サンは自分の手に握られている、退魔の剣に映る自分を見ていた。
ティアは、サンと約束をした時から、こうなる事を予想していたのかもしれない。
「……やだ……俺がお前を刺す? そんな事、できるわけがねえじゃねえか」
「随分自分勝手ですね」
ティアのその言葉に、サンは顔を上げティアの顔を見る。
「前に、貴女も私に同じ事を約束させたじゃないですか? もしも貴女が私を襲うようなことがあれば、迷わず殺せ……と」
ティアは真紅の瞳で真っ直ぐにサンを見つめそう言う。それは威圧的で揺ぎ無い光を持っていた。
サンはその言葉に、あの夢魔に取り付かれ時の事を思い出したのか、一瞬驚いたような表情を浮かべると、悔しそうに唇を噛み締め、真っ赤な髪の毛を鷲掴みにし、顔を伏せた。
剣を握っている手が震えている。
二人のやり取りを、リッパーは固唾を飲んで見守る事しかできなかった。
「サン、お願いです。今やらねば、私は闇に支配されます。もう私の記憶がもたない……大丈夫、私はそう簡単には死にませんから」
ティアはそう言い、弱々しく笑みを浮かべていた。
「記憶がもたないって、どういう意味だよ」
そう言ったサンに、ティアは唇を噛み締め目を逸らす。
「闇の力は、ティアの中の何かを代償として欲しがった。それが記憶なんだろう?」
リッパーは、柱にもたれ掛りながらそう言った。
「記憶が無くなったら、なぜ闇に支配されるんだ?」
サンの言葉に、ティアは溜息混じりに笑みを浮かべて口を開いた。
「記憶が無くなると言う事は、この世の全てにしがらみがなくなると言う事。愛情をかけられた事も、優しくされた事も、楽しかった事、嬉しかった事、その全てを失くし、そして私の中には忌まわしい自分にとって苦痛でしかない記憶が残る。そうするとどうなると思います?」
「……この世の全てに憎悪を抱くようになるって事か?」
サンの言葉にティアは静かに頷いた。
「第二の闇王が誕生する……まあティアが此処を支配するなら、俺はそれでも構わないけど……それはティアの本意じゃないよな」
リッパーの言葉に、ティアは優しく微笑んだ。
その微笑に、リッパーは照れたように頭を掻き、目を伏せた。
「うざってえんだよ。こんな面倒な事、俺に押し付けんじゃねえよ」
そう言って、ティアを見つめるサンの瞳は微かに揺れていた。
退魔の剣が、サンの心に共鳴するかのように、甲高く鳴き、輝きを放つ。
「サン! 私を刺しなさい!!」
ティアの真紅の瞳が光る。
サンは目を伏せ、悔しそうに唇を噛み締める。
ティア自身、サンに残酷な事を頼んでる事は十分にわかっていた。だが、今はこれより他に手立てが無い。その事にだけは確信が持てた。
サンは顔を上げる。退魔の剣はサンの心を代弁するように、悲しい音を響かせ鳴く。
退魔の剣は眩い光を放っていた。握っているという感覚を感じないほど、手に馴染み体の一部のような軽い感覚だった。
緑の街で、ティアが炎に包まれた所を目撃した時と同じ感覚。
サンは意を決したように瞳を凛と輝かせる。
真夏の太陽を思わせるような熱く激しい雰囲気が、サンを包んでいた。
「これがお前の望みなんだな? 約束は守ってやる。そのかわり絶対に生きてろよ!」
サンはそう叫び、ティアに向って走りこむと剣で胸を貫いた。剣はティアの体を射抜き、より一層激しい光を放っていた。
リッパーは冷ややかな視線でその様子を見つめ、リンは祈るように青い石を握っていた。
マーラは涙越しにサンとティアを見つめ、リリーの装束を握り締めていた。
リリーはマーラを抱きしめながら目を伏せている。ライアンは、この城に入って来た時にティアに耳打ちされた事を思い出しながら、自分の胸元を力一杯に握り締めていた。
刹那、ティアの体の中で、音無き音を響かせ何かが砕け散る。
闇王の力そのもの、恐怖という思考がこっぱ微塵に砕け散ったのだった。
ティアはサンに微笑むと、力なくその場に崩れる。
サンは咄嗟にその体を受け止め抱きしめた。
「ティア……死んでじゃねえよ」
サンはそう呟き、頬を伝って涙が流れ落ちていた。
皆が落胆する中で、微かに声が響いた。
「……勝手に……殺さ……ない……で」
ティアはそう言い、顔を上げ、サンから弱々しく離れると、自分に突き刺さっている剣に手を掛け、一気に引き抜いた。
ティアの中で一瞬、意識が飛びそうになり、後ろにバランスを崩す。
サンは咄嗟に手を伸ばしたが、届かない! ティアはそのまま赤い水が流れ込む亀裂に落ちていきそうになる。
「ティア!」
サンとリッパーの声が響いたかと思うと、翼を羽ばたかせる音が聞こえ、リリーの手がティアの手をしっかりと握りしめた。
リリーはティアをサンの足元へと運ぶ。
「ティア!!」
サンはそう叫び、ティアの顔を覗き込んだ、胸からは血が流れていた。
退魔の剣の力なのか、思ったよりも傷は小く、急所も外れていた。
ティアは胸を押さえ、顔を痛みに歪めながら上半身を起こすと、周りをゆっくりと見渡す。
赤い水の流れの向こう側に見える者達……栗色の髪の毛に青い石を首から下げ、優しく微笑む女、黒い髪と瞳を持ち、涙混じりに自分を見つめる小さな少年、縮れた金髪を揺らし、安心したような表情を浮かべる少年、顔を見ても、それが何処の誰なのか、わからなかった。
ティアは自分に何が起こったのかはわかっていた。憶えていたかった何かが自分の中から消えてしまった。
ティアは髪の毛を掻き揚げるように頭を抱えると、顔を伏せ微かに体を震わせ笑う。
途方も無い悲しみに襲われた時、人間は泣くのではなく、笑いが零れてしまう事をティアは初めて知ったような気がしていた。
「ティア、どうした?」
唯一の救いは、そう声をかけてくれる、眼の前のこの顔を憶えていられる事だけだった。
ティアは、今にも壊れてしまいそうな脆いガラスのように瞳を揺らし、サンの顔を見つめる。
サンは心配そうにティアの顔を覗き込んでいた。
安心したのもつかの間、亀裂の間に深々と開いた穴から、風が渦を巻くような音が聞こえてくる。
次の瞬間、床自体が下に落ちるように揺れ、リン、マーラ、ライアンの三人はバランスを崩しその場に転ぶ。
リリーは咄嗟に羽を広げ軽く飛び、リッパーは柱にしがみついた。
サンは覗き込んでいたティアの体の上に転び、ティアの体は押し倒されるように床に倒れた。
ティアは胸に激痛が走り、呻き声を上げ顔を歪める。
サンは驚きティアから咄嗟に離れ、起き上がった。
「ご、ごめん。大丈夫か?」
サンの言葉に、ティアは真紅の方の瞳だけを開き、サンを見つめた。
今の揺れが何を意味するのか、ティアには予想が付いていた。
赤い水が、轟音を響かせながら渦を巻き始める。
地下深い闇の中で、大きな穴が開き、一気に流れ込んで行くように見えた。
「漆黒の闇の扉……」
リッパーは微かにそう呟き、赤い水が渦を巻く中心部を見つめていた。
「漆黒の闇の扉? 闇王もそんな事言っていたな、どういう事なんだ」
サンはリッパーの顔を見ながらそう聞いた。
リッパーは一瞬、ティアの顔を見る。ティアの真紅の瞳は悲しい色をしていた。
「リッパー、私が話しますから」
ティアとリッパーの間に流れる、違和感のある雰囲気を感じ取り、サンの心には嫌な空気が流れていた。
「サン、前に話しましたよね? 人間の醜くい心が妖魔を創り出し、そして今この世は、消滅しようとしている事」
「ああ、それは聞いた」
「この赤い水は人間の腐った心で汚染された水、そして降ってきている石は、妖魔の結晶です。それを糧に姿を現したのは、この世の全てを呑み尽くすためだけに開かれた扉。漆黒の闇の扉は開かれてしまった」
ティアは胸を傷を押さえながら、一つ一つの言葉を噛み締め言葉を紡いだ。
「……開かれたって……閉める事は出来ないのか?」
サンの言葉に、リッパーは悲しく目を伏せ、ティアはサンを見つめ優しく微笑んだ。
「一つだけ方法があります」
「ティア! 駄目だ! それだけは、絶対に駄目だ!」
ティアの言葉に、赤い水の向こう側から、マーラの声が響き渡った。
サンは、マーラの言葉の意味を全て把握したわけではなかったが、感覚的にそれはティアにとって良くない事だという事。それだけはわかったような気がした。
「おい、その方法って」
「光と闇の力を持つ者こそ鍵となり、身を鍵とし扉を永遠に封印せん」
サンの言葉を遮るように、ティアは揺れる瞳でサンにそう言葉を紡いでいく。
こういう事だけはしっかりと記憶に残ってる。それが皮肉に感じ、ティアは鼻で笑った。
「これが、水色の街で見た言葉の全てです」
ティアの言葉に、サンは目を見開きティアを見つめる。
「……それってつまり、お前が扉を閉じるための鍵だってのか……聞いてねえぞ、そんな事!」
サンは激しく顔を真っ赤にして、ティアの装束の襟元を掴み上げそう叫んだ。
「あたりまえです。言ってませんから」
ティアは、そんなサンの顔を静かな瞳で見つめながらそう言った。
サンは、ティアの静かな雰囲気に、呑み込まれた様に何も言えなくなり、唇を噛み締める事しかできなかった。
ティアの襟元から手を放したサンは、静かに立ち上がると、今にも零れそうなほどの涙を湛えた瞳で、ティアをただ見つめていた。