〜亀裂〜
ティアを覆っていた黒いオーラがティアの中に消えていく。
途端に体に激痛が走り、心臓を破るのではないかと思うほどの激しい鼓動がティアを襲う。
ティアは胸を押さえ、冷や汗の出る顔を歪めながら、サンの手から体を起こし、リッパーの後姿を見つめていた。
ユーラさん……ティアは心の中でそう呟き、悔しそうに手を握り締めた。
ティアは自分の中で、音も無く何かが大量に剥がれ、欠けて落ちていく感覚を感じ、恐怖をおぼえていた。
記憶が剥がれ落ちていく感覚だった。悲しみが心を刺激して、痛みに拍車を掛ける。
「ティア? 大丈夫か?」
サンの言葉にもティアはただ目を閉じ顔を歪ませ、苦悶の表情を浮かべていた。
サンの声も痛みに掻き消され聞えていないのかもしれない。
その時だった、いきなり下から突き上げてくるような感覚と共に、激しく地面が揺れ、床に亀裂が入って行く。
その場にいる者全てが、眼の前で起こっている現象に目を奪われていた。
亀裂は深く大きく大地を裂くように、城ごと真っ二つにして行く。瓦礫が雨のように降ってきた。
クラマ達のいる足場が崩れ、亀裂が入る。クラマ、リン、マーラは咄嗟に飛び、その場を避けた。ライアンだけが逃げ遅れ、足場の無くなった暗闇に落ちそうになる! ライアンが咄嗟に伸ばしたその手を翼を広げたリリーが握り締め、寸前で落下を阻止した。
リッパーは軽く跳躍すると、クラマ達とは反対の方にいるティアの傍らに着地した。
亀裂はどんどん深く、幅広くなっていく。亀裂の奥深くに潜む闇は、何も無いがゆえに、全てを吸い尽くす力を持っているようであった。
水の音? 皆の耳に水が流れる音が聞こえてくる。それは徐々に大きくなり、轟音となって城の外側から襲い来るように聞えてきた。
音に誘われ、皆が城の外に目をやる。
その場いる全ての者の表情が凍り付き、言葉を呑み込んだ。
皆の瞳には真っ赤な水が、腐臭と共にこの城目掛けて流れ込んでくる様が映る。
赤い水は、怒涛の如く、亀裂を辿り、引き裂かれた大地を二つに分けるように流れ、地下深くに流れ込んでいく。
地下深く続く暗闇がそれを望み、求めているようであった。
ティア、サン、リッパーがいる側と、クラマ、リン、マーラ、リリー、ライアンがいる側とを隔てている赤い水の中に、何かが落ちる。黒く小さな何かだ。
その一つを切っ掛けにして、次から次にそれは赤い水に落ち、赤い飛沫を上げた。
「……黒い石……賞金稼ぎが金と交換した石」
サンは微かにそう呟くと上を見あげた。
皆もそれに促がされ上を見る、城が割れてしまった境目、薄暗い空間が頭上にはあった。
何処から落ちてくるのか、暗くてよく見えなかったが、赤い雨と一緒に、黒い石が無数に落ちてくる。
その場にいる者達は、その光景に言い知れぬ不安を感じながら見ていた。
ただ一人、その赤い水と黒い石の理由を知る者がいた。それはリッパーであった。
リッパーは悔しそうに真紅の瞳を伏せると舌打ちをした。
「時は来た! 人間の腐りきった心を含んだ水、醜い心が生み出した妖魔の結晶。今こそ、その全てを糧に、漆黒の闇の扉が開かれる」
赤い水が流れ落ちる轟音の中に、闇王の声が響き渡り、次の瞬間、サンの背後に闇王が現れた!
「サン!」
リッパーの声が響いたが、その時にはすでにサンの体は闇王の手の中にあった。
それは羽交い絞めにされているというよりは、闇王の体の一部として、闇に埋め込まれてしまっているように見えた。
「漆黒の闇の扉って、何だよ。俺達が集めていた黒い石……全てお前の差し金か!?」
サンは必死に体を動かしながらそう叫ぶ。
「愉快……この上なく愉快だ。サンと言ったか? お前達人間の愚かな事、この私の策に嵌ってくれた事を感謝する……漆黒の闇の扉を開き、この世を闇で覆いつくす事が、私の望み」
闇王は、軽い笑い声を立て、そう言った。
ティアは痛む体でゆっくっりと立ち上がる。
「サンを放せ……」
ティアの真紅と翡翠色の瞳が光り、闇王を鋭い視線で睨んでいだ。
闇王は、サンのこめかみに長い爪先を当てると、真紅の唇を歪ませ口を開いた。
「では代わりに、お前の翡翠色の瞳と肉体を頂く」
闇王のその言葉に、サンの瞳は、絶対に駄目だといっているように見えた。
ティアはそんなサンの瞳を見ながら微かに微笑む。
「……わかった。お前の言う事を聞く。だが、サンは先に放せ」
ティアのその言葉に、少しの間、沈黙があったが、やがて闇王はゆっくりと言葉を発した。
「よかろう」
闇王の表情は自信に満ちていた。人間ごときが私に敵うはずが無い。そう言っているようだった。
サンは闇王の闇から放たれるように開放され、その場に膝をつく。
その時には、もうすでに闇王の姿はティアの眼の前にあった。
「ティア!」
リッパーが叫び、ティアに近付こうとする。それをティアは手を上げ、来るなと合図した。
「お前、何考えてるんだ!」
リッパーの言葉が終るか終らないうちに、闇王の手がティアの翡翠色の瞳に伸びる。
途端に、ティアに異変が起こる。
翡翠色の瞳に違和感を感じ、次の瞬間、瞳に痛みが走る。何かに瞳を掴まれ抉り取られるような感覚を感じた。
ティアは咄嗟に翡翠色の瞳を押さえる。
わかっていた。これが闇王の力である事を。ティアの瞳を押さえている手の合間から血が流れ始めた。
刹那、ティアの眼の前をかすめるように光が横切った!
闇王の手がそれに反応して止まる。
「ティアに手を出すな!」
それはクラマの声であった。
闇王はその声にニヤリと笑うと、クラマの方に掌を向けた、その瞬間黒い塊がクラマ目掛けて飛んで行く。
クラマはそれを咄嗟に放った気とぶつけ弾け飛ばした。
「クラマ様逃げて!」
ティアの声が響いたかと思うと、その弾け飛んだ黒い粒子の一つ一つが、クラマの体に付着する。クラマは驚愕の顔を浮かべていた。
ティアは咄嗟に、向こう岸へと飛ぼうとする。だが強大な力に引っ張り返され、柱へと体を叩き付けられた。
「うっ……クラマ……様」
ティアは床に膝をつきながら、顰めた顔でクラマの方を見る。閉じられ翡翠色の瞳からは血血し、頬を伝って血が流れていた。
クラマの体に付着した黒い粒子は、見る見るクラマの装束に染み込み、体の中へと染み込んでいく。
クラマは自分の体の内側から、思い切り気を放つが、強大な闇の力の前には、無力であった。
「くっ……ぐ……あああああ」
クラマの体には今まで感じた事の無い激痛が走る。体に付着した黒い部分はあっとい間に広がり、その部分から皮膚が腐り、体が朽ちていく。
「クラマ!」
マーラがクラマに近付く。
「マーラ、近付いてはいけません!」
ティアの声に、マーラの体が驚いたように止まり、ティアの顔を見た。
ティアはマーラを見つめながら、ゆっくりと首を横に振る。
もうこれ以上、犠牲を出す訳にはいかない。ティアは心の中でそう呟きながら、眼の前で朽ち果てていく、クラマを見ている事しかできない自分と、眼の前に存在する、この闇王に対して激しい怒りを感じていた。
クラマ様……ティアの揺れる瞳の向こう側で、クラマの体は液体となり、消えて無くなってしまった。
「ぐあああああああ!」
マーラは悲しい叫び声を上げ、その場に崩れるように膝をついた。俯いた顔からは涙が雫となり落ちていた。
ティアは拳を思い切り握り締め、床に叩きつける。胃が口から出てくるのではないかと思うほどに、ティアの中の器官、全てが怒りを感じていた。
今までに見た事も無いティアの怒りを含んだ雰囲気に、周りは息を呑み、理由の無い恐怖を体全身で感じていた。
そんな中で闇王の笑い声が響き渡る。
「黙って見ておればいいものを……私の力の前ではお前達人間の力など無力なのだよ」
闇王はそう言いながら、ティアの怒りに満ちた真紅の瞳を見つめる。
「クソッ!」
サンはそう舌打ちをして、剣を構え、闇王に突進しようとした瞬間、ティアと闇王を囲むようにして、半球体の光が現れる。それはサン達の進入を拒むように光り輝いていた。
「ティア、結界を張りやがったな!」
「サン、約束、守って下さいね! 必ず!」
ティアはサンを見てそう言い放つと、体から黒く冷たいオーラを発する。ただこれは今までの物とは少し雰囲気が違っているように感じた。
黒いオーラはあっと言う間に広がり大きくなると、闇王の体を包み込んだ。
闇王は余裕とも取れる冷ややかな笑みを浮かべている。
ティアは自分の中の闇の力が、闇王の存在自体を欲している事を感じていた。
本来あるべき姿に戻ろうとしているのかもしれない。
ティアの表情は、ティアであるにも関わらず、違う人間がそこに存在しているよう見えた。
「闇王、そなたは我の中にあるべき物。自ら形と意思を持つ事など許さん」
ティアの口から、ティアの言葉とは思えないほど冷淡な口調で言葉が紡がれる。
それはまるでティアの言葉を借りて、違う何かが話している様だった。
「何を言う! 私がお前を取り込むのだ!」
闇王は、ティアの言葉に動揺しているようであった。
だがティアは表情を変えない。
「ダーク・ルーラ、名前の支配により、我の中に封印する」
ティアはそう感情を感じさせない口調で言い、真紅の瞳を光らせる。黒いオーラは波打ち蛇のように、闇王の体に纏わりつくと雁字搦めに縛り付けた。
「私を倒したとて、もう遅い、漆黒の闇の扉は開かれる。人間達は滅ぶのだ」
闇王の言葉にティアは無表情のまま、より強く気を放つ。
闇王もまた、もがく様に力を放つ。
ティアと闇王の力がぶつかり合うと、凄まじい黒い風が吹き荒れ、ティアと闇王を囲んでいた光が消える。
風は鋭く吹き荒れ、かまいたちを起こした。周りにも一気に緊張感が高まる。気を抜けばそのかまいたちに切り裂かれてしまう危険がある。
ティアの黒いオーラの力が高まり、闇王の気をティアのオーラが侵食していくと、黒く冷たいオーラは、一瞬して闇王ごとティアの体に吸い込まれるように消えていった。
風も穏やかになり。ティアの漆黒の髪の毛が静かに揺れていた。