〜喪失〜
腐臭を含んだ雨が徐々に激しくなりだしていた。
「最悪よ! この雨は、なんとかならないの! 臭くてかなわないわ」
リンは歩きながら、降り続く雨に怒鳴りつけるようにそう言った。
「この街に起こる現象は、人間界からの影響が大きいのです。上を流れている川、皆さんはどう思われました?」
ユーラは、すこし嫌味を込めた口調でそう言う。
「そりゃあ、人間の血じゃねえの? この街で大量の人間の死体を見たぜ」
一番前を軽やかに歩くマーラは、後ろを向きながら、ユーラにそう言う。
ティアを始め、リンもライアンも同じように思っていた。
「あれは血ではありません……人間の腐りきった心が影響して、水が汚染されてしまったんです。だからあんなに酷い匂いを放つ」
ユーラはそう言いながら、頭上から落ちてくる赤い雫を掌に受けて、それを見つめながら呟いた。
「妖魔も含め、この世の闇は、人間の作り出す負のエネルギーによって創りだされた物。そして長年にわたり、負のエネルギーを吸い取って増殖させ大きくなり、数も増えていった」
ティアは金色の睫毛を伏せ、静かな口調でそう言った。
「確かに、僕たちが生まれるずっと前から、人間達は創造と破壊を繰り返している。その代償に沢山の命は奪われ、緑は失われ、大地は乾ききってしまい、自然界の摂理が歪められてしまった」
ライアンは、ちぢれた金髪越しに、頭上に広がる茶色の枝葉を見ながらそう言った。
「そうだな、私の街でも精霊の歌声は聞けなくなってしまった。青い石の恩恵を受け、人間達の生活は潤ったが、その代償として、もっと大事な何かを失ってしまったのかもしれない」
リンはそう言いながら、首からぶら下げている青い石を掴み見つめる。
「大人って、面倒だな! そんな難しい事言ったって、状況なんか変わらないじゃん。やるべき事は一つだろ。今はその闇王とかっていうおっさんを倒して、サンを助ける」
マーラはそう言って、やんちゃな表情を浮かべる。
「それは、そうですが、時には反省する事も大事」
「ああ! もう始まった。 反省なんか後、後! 今は前を向いてあ・る・く!」
ティアの言葉を遮るように、マーラはそう言って、ティアの周りを右にいったり、左にいったりしながら、纏わりついていた。
「確かに、一理ある! 私もマーラの意見に賛成だ」
リンの言葉に、ライアンは眉間にしわを寄せる。
「僕はティアさんの言う事も、もっともだと思う」
そう言ったライアンに、リンは鋭い目線で睨みつける。
「ああ……でも、やっぱり今はサンを助ける事が先決ですね!」
ライアンは動揺しながら、そう言って冷や汗をかいていた。
ティアはそんな三人のやり取りを見ながらクスクスと笑い声をたてる。
「ねえ、あなた達、状況をわかってるの? ティア様も笑ってる場合ではありませんよ」
柔らかい雰囲気に亀裂が入るかのように、鋭いユーラの声が響き渡った。
途端にその場の空気に緊張は走り、雨の音が異様に大きくなったように感じた。
「ユーラさん、笑う角に福来るって言葉知ってますか? 笑っていると幸せが舞い込んでくる。ユーラさん、せっかく綺麗なんですから、笑ってないと損しますよ」
ティアはそう言って、輝くような笑顔を浮かべた。
ユーラはその笑顔に溜息をつき、何も言い返せなかった。
父親であるダーク・ルーラと会話してる時のティアとは印象が違って見えた。
ティアの持ってるあの温かく優しい雰囲気は、自らが持っていた物というよりは、周りの者達と一緒に創りあげたもの。そうユーラに感じさせた。
「何か来ますよ」
ティアのその言葉に一瞬にしてその場が緊張に包まれる。ティアは身構えると周りに神経を集中した。
マーラは微かに心当たりのある気を感じていた。
何かが草を掻き分け走る音をさせながらティア達に向かってくる。一人はかなり体の大きい体形、もう一人は華奢な体形。それを追いかけるかなりの数の妖気。
二つの影がきなり茂みから飛び出してきて、ティア達の前に現れる。
それを追いかけるようにして無数の妖気を感じた。
「クラマ!」
マーラの声が響く。茂みから出てきたのはクラマとリリーの姿だった。
「おう! 探したぜ、ティア!」
クラマはそう言いながら、茂みの中を近づいてくる妖魔達に向かって光を放つ。
リンはすでに弓を構えていた、走り出して来る妖魔に矢を放つ。矢は確実に妖魔を射抜き、一瞬にして蒸発するように消してしまう。
「森の中なら、僕の力は有効だ」
ライアンはそう言って、地面に掌をつくと一気に気を込める。ライアンの手元から地面をつたって妖魔に向って、何本もの線を描き土が盛り上がっていき、いきなり蔓が土から飛び出ると、妖魔の体を雁字搦めにして動きを封じる。
ティアはその一瞬につくように手を合わせると、掌の中に光を作り出し、両手を開き光を大きくしていく。翡翠色の瞳に光が走ると、光は一気に大きさを増していき、妖魔達を呑み込み消滅させてしまった。
周りを包んでいた光が一瞬にして消えてなくなり、空間はまた元の茶色い森に戻っていた。
「ティア……久しぶりね」
その声にティアは振り返る。ティアは自分の眼の前で笑顔を浮かべ立っている女性を、どうしても思い出す事ができなかった。
知ってるはず……その事だけはなんとなくわかっていたが、記憶が剥がれてしまった後には、何も残されていなかった。
ティアの表情に、リリーは怪訝な表情を浮かべ、ティアに近付くと優しく頬を触る。
「……私の事、忘れてしまったの?」
リリーは少し悲しい笑みを浮かべてそう聞いた。ティアは瞳を見開き動けなかった。本当に何も思い出せず、それは痛みとなって心に容赦なく襲いかかってくる。
ティアは何も言葉を発する事ができなかった。
「ティア、どうしたんだ? お前の育った白い街のリリーだ、忘れるわけないよな?」
クラマの言葉が、追い討ちをかけるようにティアを痛めつけていた。
この世に白い街がある事も、自分がその場所で育った事も、一緒に時間を過ごした人々の事も、すべて記憶から剥がれ落ちていた。無理矢理思い出そうとすれば、そこから血が流れるように、頭に激痛が走った。
ティアは頭を押さえ、その場に膝を付き蹲った。
「記憶が無くなってしまったんですね」
ユーラの冷ややかな言葉に、一同は驚愕の表情を浮かべていた。
「何だよ、どういう事なんだよ!」
マーラはユーラの装束に掴みかかり、激しい口調でそう聞いた。ユーラは目を伏せ悲しい表情を浮かべると、ゆっくりと口を開いた。
「皆さんもご存知かと思いますが、ティア様の中には光と闇の二つの力がございます。闇の力を使うと、ティア様の中の闇の力は、その代償としてティア様の大事になさっている記憶を剥がし取ってしまうのです」
ユーラの言葉に、リリーはティアの傍らに膝を付き、ティアの体を優しく抱きしめた。
「じゃあ、何か? このままティアが闇の力を使い続ければ、ティアが忘れたくないって思ってる記憶が全て無くなるってのか?」
クラマはユーラに食いつかんばかりな勢いでそう聞く。
「はい。その通りです」
「ちょっと待って……それじゃあ、嫌な記憶は? 忘れてしまいたい記憶!」
リンはユーラに、静かだが威圧的な雰囲気を漂わせてそう聞いた。
ユーラは唇を噛み締める。
「鬱陶しい事に、それは残るんですよ」
ティアは頭を押さえ、顔を歪めながらそう言い。リリーの赤黒い痣のある顔を真っ直ぐに見つめる。ティアの頬を伝って涙が一筋流れていた。
大事な記憶は消滅し、排除したい記憶は残る。それが何を意味すのか。一同はそれぞれの解釈の仕方で、それを把握していた。
クラマは黒くて固い髪の毛を悔しそうに掻き毟っている。マーラは小さな唇を血が滲むほど強く噛み締めていた。リンは胸元に光る青い石を、爪の痕が残るほど強く握り締め、ライアンは、ただ呆然と立ち尽くしていた。
「……リリーさんと言いましたね。憶えていてあげられなくて……すみません」
ティアのその言葉に、リリーは揺れる瞳でティアを見つめ、漆黒の髪の毛を梳くように撫でると優しく微笑んだ。
「忘れてもいいよ。憶えてなくてもいい。私は好きで此処に来た。ティアに頼まれたからじゃない。私がそうしたくて此処にいるんだから、気にしないで」
リリーは瞳は凛と輝かせると、ティアの頬を濡らしていた涙を拭う。
だが、ティアの表情には深い悲しい影が漂い、儚げに瞳を揺らしていた。
「ティア、本当に貴方は……まったく……大好きよ。これから嫌って程、私の姿を貴方の脳裏に焼き付けてあげるわ。覚悟しておきなさい。サンには負けなんだから!」
リンはそう言って立ち上がると、ティアの手を握り無理矢理立たせる。ティアがリリーの突然の行動に驚いていると、いきなりリリーの顔がティアに近づいていき、リリーの唇が、ティアの唇に触れそうになる。ティアは咄嗟に自分の口を手で塞ぎ、後ろに転び尻餅をついた。
ティアは口を手で塞いだまま、目を見開きリリーを見ていた。リリーはティアにウィンクしながら微笑んでいる。ティアの心の中を温かい何かが通り過ぎたような気がした。
ティアは驚いたと同時、可笑しさも込み上げてきてクスリと笑う。
そんなティアの笑顔に、リリーもニッコリと笑顔を浮かべていた。
今までの重苦しい空気が一変している事に、クラマもリンもユーラも気付き、表情が少し和らいでいるようだった。
そんな中で、その雰囲気に気付きもせず、憤慨している者が一人、そして口を開けた状態で硬直してる者が一人存在していた。
リリーのこの行動が冗談だったのか、本音だったのか、それはリリー本人にしかわからない事であった。
「リリー! こんのばばあ! お前、俺のティアに何しやがる!!!」
マーラの怒鳴り声が、周りの木々まで揺らすのではないかと思うほどに響きわたる。
リリーは、マーラからの攻撃を、ティアを盾にするようにかわし、年に似つかわしくない可愛らしい笑顔を浮かべていた。
「サ、サンには負けないって……どういう意味だ?」
ライアンだけが、一人ぶつぶつとその言葉を何回も呟いていた。