〜不確かな感情〜
闇の中に埋もれるように玉座に座るその姿は、何者も寄せ付けない雰囲気を漂わせていた。
その姿を目にした瞬間に、全ての者が、己が心に眠りし恐怖を思い描いてしまう。恐怖そのものを形にしたような、存在であった。
漆黒の美しい髪の毛に、血の気の無い真っ白な肌、澄んだ真紅の瞳を持つその姿は、研ぎ澄まされた純粋な冷たさを感じさせ、触れれば指の先から凍り付いてしまいそうな雰囲気を放っていた。
この世の闇の全てを支配する存在、ダーク・ルーラ。通称闇王と言った。
それはもはや妖魔という枠を超えているのかもしれない。
「その娘が、翡翠色の瞳の泣き所か」
地の底を這うような低い声を響かせ、闇王は言った。
暗闇の中で、美しい真紅の唇だけが動いていた。
「こいつが此処にいる事を知れば、黙っていてもかならず、ティアはここに来る」
リッパーは真紅の瞳を輝かせ、冷たい床に横たわるサンを見つめながらそう言う。だがその瞳はどことなく悲しみを含んでいるようであった。
「お前は、ずいぶん翡翠色の瞳に入れ込んでいたようだが」
闇王は玉座の手すりに頬杖を付き、リッパーを見つめながら、淡々と言葉を紡ぐ。
リッパーは真紅の瞳を輝かせ、父親である闇王を睨みつけた。
「ほう、これは禁句だったようだな。私と同じ物を欲しがるとは、血は争えんな」
闇王はそう言い皮肉っぽい笑みを浮かべると、玉座から腰を上げ、ゆっくりとサンに向って足を進める。
音をさせず、気配も感じさせなかった。眼の前に存在してるにも関わらず、そこに存在してないのではないかと、疑いたくなる程だった。
闇王はサンの傍らに膝を付き、サンの顔を覗き込んだ。
刹那、サンは何かを感じたのか、茶色の瞳を開き、目の前の美しい冷ややかな顔を目にする。
「起こしてしまったか? 眠っていれば生きていれたものを」
闇王はそう意味ありげな言葉を言うと、愉快そうに笑みを浮かべ、サンの顔を見つめる。
サンの頭の中に映像が浮かび上がる。
両親の血だらけの遺体、ヴァン・ルビーが銀色の髪の毛を振り乱し、人間を殺していく姿、ティアが血だらけで横たわる姿。そして血が滴る剣を持ってる自分。
サンにとって苦痛でしかない映像が次から次に現れる。
サンは頭を抱え、見える映像を振り払おうと首を振る。だが、その映像はしつこくサンの脳裏について回った。
鼓動が早くなる。恐怖に心が締め付けられていくようだった。
闇王は眼の前で、目を見開き、自分の中の恐怖と戦っているサンの姿を見ながら、冷ややかに笑っていた。
「やめろ! もうやめろ! コイツを殺したら意味がないじゃないか!」
リッパーは闇王にそう強く言う。その言葉に闇王は不快な表情を浮かべる。
「お前はどうも、人間臭くていかんな。やはり幼い頃に人間界に落ちたのが原因か」
「……そんなんじゃねえよ。コイツを殺したら、お前の野望が成就できなくなる」
リッパーは、闇王の真紅の瞳を、真っ直ぐに射抜くように見つめそう言った。
その時だった。サンの茶色の瞳が、金色に輝く。
リッパーはサンのその瞳の色に驚愕の表情を浮かべた。
闇王はその瞳の色に何かを感じたのか、静かに冷たい視線で見ている。
「うざってえんだよ! ああ、頭がいてえ……こんな茶番はやめろ!」
サンはそう言い放ち頭を押さえゆっくりと立ち上がった。
「私を目の前にして、死ななかった人間は数少ない。なるほど、退魔の剣の所有者とは……おもしろい」
闇王は美しい顔を歪めながら、声を立てて笑う。
「お前の心にも弱さはあったはず、それは恐怖となりお前に襲いかかった……なぜ? なぜ押し潰されなかった?」
闇王は冷たい口調で、サンにそう聞く。
「んなもん、知らねえよ! 親がどうで、どうなったとか、俺がティアを刺す? ありえねえよ。もしもそんな事があったとしたら、俺はティアに殺られてる。そう約束したんだから」
サンの言葉に、ダーク・リッパーは冷ややかに笑みを浮かべる。
「何が可笑しい!?」
「……人間という生き物がその鬱陶しい感情を大事にする事を忘れていた。信頼だの愛情だのと不確かな感情。信頼も愛情もその裏側には常に裏切りや憎悪、嫉妬がついてまわる。そんな不確かな感情を信じているとはな……結局、馬鹿な人間だと言う事だ」
闇王がそう言うと、サンの周りに黒い影が集まりだす。サンはその纏わり付いて来る影を手で払おうとするが、影はどんどん色濃くなっていく。
「私の力を破った事に敬意を表して、翡翠色の瞳が来るまでは生かしておいてやる。それまでおとなしくしていろ」
闇王の言葉とともに、黒い影はサンを包み込み、そのまま空間に吸い込まれるようにして消えてしまう。
「リッパー、あの娘の話し相手になってやれ……お前とは話が合いそうじゃないか」
闇王はそう言い、真紅の瞳を輝かせる。その瞳に、リッパーは何も言い返す事ができなかった、闇王の恐怖そのものの力、その力の前ではリッパーも逆らう事ができなかったのだ。
不本意ではあったが、闇王の意のままに動くしか選択肢はない。
リッパーは唇を噛み締め、黒い影に身を包むと、空間の中に消えていった。
「翡翠色の瞳……光の象徴。漆黒の闇の扉を開くのに邪魔な存在は消す」
暗闇の中で、真紅の瞳と唇が浮かび上がり、冷ややかな言葉が響いていた。
ユーラは白い髪の毛を揺らしながら前を歩く。
ティアは腕の傷を手で押さえながら、その後姿を見つめ歩いていた。
マーラはそんなティアが心配なのか、ティアの周りを右に行ったり左にいったりしながら歩いている。
茶色の木々が伸ばした枝がまばらになってきた。その合間から眼の前を塞ぐようにそそりたった岩肌が姿を現した。
ユーラがその岩肌に掌を当てると。人一人が通り抜けられるくらいの穴が開く。
「さあ、もう少しです」
ユーラはそう言うと、目の前に現れた穴の中に入って行く。ティアはユーラの後をついて中に入って行った。マーラは不安なのかそんなティアの装束を握り締めた。
ティアはマーラの不安を感じ取り、マーラの手を優しく握ると優しく微笑んだ。
「大丈夫ですか?」
ティアの言葉にマーラは小さく頷く。ティアはマーラの手を引いて歩きだした。
中は薄暗い狭い空間だった。入ってすぐに階段があり、三人は階段を降りて行く。
かなり深い所まで階段は続いていた。
階段の一番下の段を降りる。それなりに広い空間が広がっているように感じたが、視界が悪いために把握する事はできなかった。
そんな中で、ユーラは思い切り手を叩く。音は周りの岩肌に反響して響きわった。それと同時に、蝋燭の灯なのだろうか……否、蝋燭でも油でもなく、炎だけが空中に浮き点っていた。
炎の明かりに映し出された、眼の前の光景に、ティアは呼吸する事を忘れてしまう程に驚愕する。
マーラはその異様な雰囲気に、寒気を感じていた。
「ティア様、貴方様のお父上にございます」
ユーラは眼の前の、朽ち果て白骨化した物を差してそう言った。
「これは、いったい……これが父だと言うのですか? これはどう見ても人間の骨……」
ティアはそう言いながら、後ろへと後ずさる。
「驚くのも無理はありません。ご主人様は妖魔の中で唯一、人間と同じ体を持つ妖魔です。ただし死ぬ事のない不死であります」
ユーラの言葉と、眼の前の光景に矛盾を感じて、ティアは眉間にしわを寄せる。
「どう見たって、死んでんじゃねえか!」
マーラもティアと同じ事を疑問に思ったのか、ユーラに強い口調で言う。
「確かに肉体は滅んでしまいましたが、ご主人様のご意思は生きておられます」
ユーラの言葉に、反応するように風が吹き、空中に浮いている炎が揺れた。
ティアは自分の周りを包むように纏わり付く気を感じていた。温かみと同時に懐かしい感じのする気だった。
「我が子よ、やっと会うことができた」
その声は、何処からともなく聞え空間全体に響いていた。
何処かで聞いた事のある声……そう、水色の街で自分自身の封印が解けた時に聞えた声と同じものだった。
「これは、どういう事なのですか?」
「私の体は二十一年前、ある者の手のよって滅ぼされてしまった」
二十一年前、それはティアの出生と重なる。いったい何があったのいうのだろうか。
「私が産まれた事と関係があるのですか?」
「……どこから話すべきだろうか……まずはお前が私に聞きたい事があるのなら言ってみろ」
薄暗い空間に響く声に、ティアは手を握り締める。そして意と決したように口を開いた。
「貴方は母に妖魔である事を隠して、まじわりを持ったのですか? 母を愛していなかったのですか?」
ティアの問いに、空気の動きもない少しの沈黙が漂う。
「当たらずとも遠からず……と言った所だろうか……私は妖魔である事を隠してマヤに近付いた。それは揺ぎない真実」
「それでは、貴方は私という存在を作り出すためだけに、まじわりを持ったという事ですか?」
「それは少し違う。マヤを利用しようと近付いたのは確かだ。だがマヤと言葉を交わし心を感じる事で、マヤに惹かれていったのもまた事実。私はマヤを愛していたよ」
ティアの周りの空気だけが微かに揺れているように感じた。
「マヤのあの純粋な心が必要だった。この世を救う鍵となる光の心……そして光をより強く輝かせるための闇の力もまた必要であった」
「それが、私の存在だと言うのですか?」
「闇であり、光でもある。そしてまた闇でもなく光でもない存在。闇にも光にも属さぬその力は、この世を救う唯一の鍵となる」
「ですが、闇そのものの貴方が、なぜ人間界を救おう等と思うのです」
「私という闇は、もともと人間の中にあったもの。時の流れの中では悪魔にもなり神にもなり、今は妖魔として存在する。人間達の考え、視点によって、私は姿を変えながらも人間達に対して戒めとして存在してきた」
「戒め……ですか」
「そうだ、それは、私をこの世に形として残した人間の意思であり、この世を滅亡へと向わせないための最後の賭けでもあった……だが、長い時の流れの中で、予想外の展開が私を襲ったのだ」
その声と共に、ティアの周りに漂っていた空気が冷えていくような気がした。
マーラはその雰囲気を敏感に感じ取り、ティアの装束をキュッと握り締める。ティアはそんなマーラを静かに抱きしめた。