〜代償〜
ティアはゆっくりと重い瞼を開ける。
蝋燭の揺れる光の中で、ユーラの顔が自分の顔を覗きこんでる事に気付き、ティアは目を見開き驚いた。咄嗟に体を起こそうとしが、体が異様に重く動かす事ができなかった。
「急に起き上がるなんて無理ですよ。あれだけひどい怪我を負われていたのですから」
ユーラはそう言うと、冷たく絞ったタオルで、ティアの額の汗を拭く。
「まったく貴方という方は無茶をなさいますね」
ユーラは赤い瞳を揺らし優しい笑みを浮かべるとそう言った。
「何日、寝てました?」
「今日で五日目ですから、まる四日ですね。サン様も心配されて何度もお顔を見に来てました」
「そうですか……サンの怪我の様子は?」
「大丈夫ですよ。肩の方はまだ完治してませんが、クロード様の話ではじきに良くなるとの事でした。そうやって他の方の事ばかり心配なさるんですね」
「そうですか……よかった」
ティアはそう言うと、深呼吸をしながら重い体を動かし、床に足を付けると、ゆっくりと体を起こす。
油断すると今にも倒れてしまいそうだった。
「ティア様、大丈夫ですか?」
「ええ、まあ」
「……大丈夫じゃないはずですよ」
ユーラの言葉には何か含みがあるように聞え、ティアは一瞬、不快感を感じた。
「何が言いたいのです?」
ティアはユーラの顔を睨むようにそう聞いた、ユーラは今まで纏っていた柔らかく優しい雰囲気を一変させ、冷ややかな雰囲気を漂わせる。
「……まったく、黙って様子を見るだけにしようと思っていたのに、できなくなるじゃないですか」
ユーラのその言葉にティアは訝しげにユーラを見ていた。ユーラはそんなティアに気付くと溜息混じりに笑い口を開いた。
「闇の力を使いすぎると、闇に支配されますよ。現に過去の記憶が消えてはいませんか?」
ユーラはティアの顎に手をかけると、瞳の奥を見透かすように刺す様な口調でそう言った。
ティアはそんなユーラに不快感を覚え、ユーラの手の払う。だが、それと同時にユーラの言葉が心の奥底まで入り込んできて不安に染まる。
ユーラはティアの不安げな表情に、追い討ちをかけるように言葉を続ける。
「記憶の中に欠落している部分はありませんか? 例えば誰かに愛された記憶」
ユーラの言葉にすぐに思いついたのはサンとの事だが、それは忘れてはいなかった。
ティアは自分の記憶の一番古い記憶を辿る。そして自分の記憶の中に穴が開いている事に気付く、いくら思い出そうとしても思い出せない……確かに憶えていたはずの記憶。
白い街で過ごした記憶の中で、一番忘れたくない人の顔が思い出せない。
記憶の全てに白いもやがかかった状態で、胸が苦しくなるのを感じる。
「その顔からすると、どうやら思い当たる節があるらしいですね」
「いったい、これは……貴女は何者です」
ティアは記憶が無くなってしまった事に焦りを感じ、それは痛みとなって心臓を刺激する。
鼓動が早いリズムを刻み、息苦しかった。
「私は闇の街の住人……一応貴方の味方だと自分では思っているのですが」
「いったい、どういう事なのです?」
ティアは頭を押さえ、困惑した様子でそう聞いた。
「今は話す事はできません。ただ一つだけ言いたい事が……闇に支配されていけません。闇の力を使えば、必然的に貴方の中の光が闇に侵食されていきます。ですから封印が解かれた今、力の使い方には十分気をつけて欲しいのです。闇に支配されては困るのです」
ユーラの言葉には何か大きな意味があるような、そんな含みのある口調であった。
「なぜ?……なぜ闇の者が、私にそんな事を言うのです。」
ティアのその問いに、ユーラは悲しく笑うと口を噤んだままティアから離れる。
「ティア様が気づかれた事、サン様とクロード様にお知らせしてきますね」
ユーラはそう言って元の柔らかな雰囲気に戻ると、ティアに背中を向ける。
「私はこれでこの街から出て行きます。闇の街でお会いしましょう。待っています」
ユーラは背中を向けたままそう言うと、部屋を出て行った。ドアが閉まると、音一つない静かな空間が広がる。
それは重い重い静けさだった。いきなりの出来事にティアが怖れを感じていた。
いったい、今のはどういう事だったのか……沢山のことが突然頭の中に入ってきて、整理するのが苦痛なほどだった。
ティアは眉間にしわを寄せ、頭を抱えていた。
抜け落ちてしまっている記憶を必死に思い出そうとするが、どうしても思い出せない。
ただ優しい手と温かい愛情を貰った記憶はあった。だがどうしても顔と名前が思い出せなかった。それはティアの中で凄まじい苦痛となって広がっていく。今にも涙となって溢れそうだった。
これが闇の力を使う事の代償……使う事によって私の中に闇が広がっていくという事なのか。
ティアは妖魔に射抜かれた胸の部分を手で押さえ溜息をつく。
「……普通の人間なら死んでます……よね」
そう呟き、溜息と一緒に笑いを吐き捨てる。
B・ロージェが言っていた、あの方……それは私の父の事なのだろうか。
闇の街にいると言っていた……ユーラも闇の街で待ってると言っていた……だがサンを危険な目に合わせるのは避けたい……
闇の街に行かざるをえない現状を、眼の前に突きつけられて、ティアは溜息をついていた。
ティアは顔を伏せ、重い空気に押し潰されそうになる中、必死に自分自身を保っていた。
薄暗い空間にドアをノックする音が響く。
「どうぞ」
ティアの声に反応してサンとスペル、そしてクロードとジェドが入ってきた。
「ティア……」
サンはか細い声でそう言いながら、揺れる瞳でティアに近づき、眼の前で止まる。
ティアはそんなサンを優しい瞳で見つめると、手を伸ばしサンの頬に優しく触れる。
ティアは何も言わなかった。ただ黙って翡翠色と真紅の瞳を微かに震わせ、サンの頬を愛おしそうに摩るだけだった。
ユーラとの会話をやはりサンに話すことはできない。ティアはそう思っていた。
「ティアさん……」
そう弱々しい声で、近づいてきたのはスペルだった。
ティアは温かい眼差しでスペルを見つめる。スペルの瞳は弱々しく震えていた。
サンはそんなスペルの肩に背後から手を添える。
「ご、ごめんなさい……それで……ありがとう」
スペルは紫色の瞳を凛と輝かせてティアにそう言う。
スペルの言葉はティアの耳を通して、心の中に浸透していった。
ティアは天使のような温かく柔らかい笑顔を浮かべると、スペルの手を握り、自分の方に引き寄せると抱きしめた。二人を温かい風が包み込んだように見えた。
「私もありがとう。スペル、貴方の言葉は私の心を癒しくれます」
ティアはそう言って、伏せた金色の睫毛の向こ側に涙を浮かべていた。
ジェドはその光景を目の当たりにして、スペルの言霊に殺られそうになった、あの時の姿との違いに驚きを隠せないでいた。
「悪かったな」
ジェドは少し気まずそうにそうティアに向け言葉を紡ぐ。ティアはゆっくりと顔を上げ、ジェドに優しく微笑むと口を開いた。
「私の方こそ、少し感情的になって、神の存在を全否定してしまいました。この街の方々の気持ちを考えず、申し訳ありません」
「お前にそう言われたら、なんだか俺達がカッコつかねえじゃねえか」
ジェドはそう言いながらティアの頭を押さえつけるように撫でる。温かみが伝ってきて、ティアは心地よさを感じていた。
「そなたには、生きていく上で本当に大切にしなくれはいけない物が何なのか、教えてもらったような気がする……心から感謝します」
クロードは凛とした雰囲気を漂わせながら、深々と頭を下げた。
その言葉にティアは悲しい影を漂わせながら微笑み、気だるそうに溜息をつく。
サンはそんな小さな影を見逃さなかった。
「長話は体に毒です。私達はこれで……」
クロードもティアの疲れている表情に気付いたのか、そう言うと、ジェドとスペルを連れ部屋から出て行った。
柔らかい蝋燭の光の中で、サンはティアを見つめていた。
ティアはサンに微笑みかけると、自分の横に座るようにベッドの上を手で叩く。
サンはティアのその行動には従わず、両手を広げるとティアを包むように抱きしめた。
いきなりのサンの行動にさすがのティアも驚き、ほんのりと頬を赤く染めていた。
「ティア、何かあっただろう?」
サンの言葉に、ティアは心臓が高鳴るのを感じる。
サンに知られてはいけない。知ればまた心配させる。また危険にさらしてしまう。
「いえ、何も……」
「またそう言うのか、いつもお前は自分ひとりで何でも抱えるんだな。少しは俺を信用してもいいんじゃないか? そんなに俺は頼りないか?」
サンの言葉を聞いて、ティアはサンを抱きしめたくなる衝動にかられる。このまま抱きしめて自分の物にしていしまいたくなる。そんなわがままな自分の存在にティアは苦笑する。
それと同時に、大切に思うからこそ嫌われたいと思う。そんな矛盾した考えも心の中を過ぎっていく。
突きつけられた、未来のわからない現実と、サンの自分に対しての思い、そして自分のサンに対しての思いの中で、ティアの心は嵐の中の小船のように揺れていた。
「俺はさ、きっとお前の為にお前と一緒にいるんじゃないと思うんだ。俺は自分がそうしたいからお前と一緒にいる。俺もかなりわがままなんだよ。きっと」
サンはそう言って、ティアの顔を覗き込んだ。ティアは何も言えずにいた。一言でも言葉を口にしたら、全てを吐き出してしまいそうだったから。
ティアは唇を噛み締めて、瞳を揺らし、サンの装束を握り締めると、顔を伏せた。流れ落ちる涙をサンに見られたくなかったからだ。
サンはティアの髪の毛を梳くように優しく撫でる。
「お前が俺の事を突き放しても、俺はお前についていくからな、覚悟しとけよ!」
サンは力強い言葉でそう言い、床に落ちる涙の点を静かに見つめていた。
言葉って、すごい力を持ってるって思うんです。
愛を語ったり、元気付けたり、その反面、簡単に人を傷つけてしまう。
使い方を間違えたくないですね。