〜言霊〜
まずい! サンは咄嗟にそう思った。
何かが起こりそうな気がして、嫌な予感だけが心の中に渦巻いていた。
「サン!? ここにいるんですよね?」
ティアの声と共に。壁を叩く音がする。
スペルの表情が追いつめられたように、緊迫感に揺れながら、後ろへと後ずさりながら、小さな口から言葉を漏らす。
「……嫌だ……お前なんて……お前なんていなくなればいいのに……いなくなれ!」
スペルの悲痛に震えた叫びが響き渡った。勿論その声は壁の向こう側のティアにも聞こえた。
声が響いた途端、周りの石で敷き詰められた空間が、小刻みに動き出す。
何かが来る! ティアはそう思い身構えた。刹那、眼の前のサンとティアを隔ててた壁が崩れ、サンの姿が視界に入ったかと思うと、足元の床が音もなく崩れ始める。
呼吸する暇も許されないほどの速さだった。
ティアの体は足元に空いた、黒い空間へと落ちていく。
サンの体が咄嗟に動いていた。飛ぶようにティアに向けて手を伸ばす。ティアの手をしっかりと握り締める。
ティアの体重が一気にサンの腕一本にかかり、その重さにサンの腕が悲鳴を上げた。
サンは凄まじい激痛に顔を歪める。だが手を放す事は無かった。
傍にいたクロードとジェドが急いでサンの体を押さえ、ティアの手を掴み引っ張り上げた。
サンは肩を抑えながら苦痛に歪む顔でスペルを見つめる。
スペルはサンの姿に悲しみに満ちた表情を浮かべていた。
「……僕のせいじゃない……みんな、みんな、お前が悪いんだ」
スペルはそう言いながら、涙で潤んだ瞳でティアを睨む。
「スペル……貴方は言霊を使うんですね。ですがそれは人を傷つけるための力ではありませんよ」
ティアはそう言いながら、サンの腕を掴む、ティアの手が温かい光で満ちサンの痛めた腕を治していく。
「スペル、お前の言う黒髪の神様の事だけな……きっとそれは神でもなんでもねえ。妖魔だ」
サンの言葉にスペルは目を見開いて驚く。
「嘘だ……お姉ちゃんまで、そんな嘘をつくの……みんな僕の命なんかなんとも思ってないんだね。僕はただ生きていたかった、それだけだよ。それって、そんなに特別な事? そうだ……みんながいなくなれば……」
スペルの瞳に一瞬狂気の色が見える。ティアの脳裏に嫌な予感が刺さる。咄嗟にティアはスペルに飛び掛っていた。
スペルの体を下にするように、ティアとスペルが床に倒れこんだ。
「スペル、私はサンの事が大好きですよ。絶対に貴方には渡しませんから!」
ティアはスペルに向けてそう叫ぶ。
なぜ今、ティアはスペルにそんな事を言ったのか、サンにもクロードにもジェドにもわからなかった。
スペルの瞳が怒りで満ち、刃のようにティアの瞳に突き刺さる。
「お前なんか、死んじゃえ……死んじゃえええええ!!!」
スペルの言葉は、ティアの瞳に突き刺さるように、ティアの体の中に入り込んでくる。
ティアは自分の体に入り込んだ何かが心臓を目掛けて走ってくるのを感じる。
まるで心臓を握られるような感覚がティアを襲い、胸に激痛が走る。ティアは胸を押さえその場に蹲った。
このままではティアの心臓は握りつぶされてしまう。
ティアの中の自分の意思ではない部分、本能的に作用する危険回避能力が、闇の力を発動させる。
今までに見た事の無い色でティアの体が包まれる。それは周りの命を全て奪うような闇色のオーラ、全てを凍りつかせてしまうのではないかと思われるくらいに、痛みを伴うほどの冷たさ、触れると火傷をしてしまいそうな雰囲気を漂わせていた。
ティアの心臓に纏わりついていた感触が凍りつきひび割れ粉砕する。と同時にスペルは気を失ってしまう。
スペルの言霊からティアの体は開放されたが、だがそれは同時にティアの体に激痛をもたらすものでもあった。
闇色のオーラは消えていく。
ティアは静かに顔を上げる。息遣いは荒く、額から汗が流れ落ち、今にも壊れてしまうのではないかとそんな危なげな雰囲気が漂っていた。
「……ティア」
サンは心配そうにティアに近付こうとした。だがティアは鋭い目線でサンを睨みつける。
「近付くな!」
ティアの今までにない雰囲気にサンは一瞬後ずさる。
クロードもジェドも、そんなティアの様子に恐怖に近いものを感じていた。
ティアは苦しそうな表情で、自分の体を自分で抱きしめる。
「……はあ、はあ、はあ」
薄暗い空間にティアの苦しそうな息づかいだけが響いていた。
やがて、少しずつだがティアの息づかいが静かになっていく。
ティアはゆっくりと顔を上げた、疲れきった顔を濡らす汗を静かに拭い、サンに微笑んだ。
「ティア、大丈夫なのか?」
「……なんとか……私の中で光と闇の力がうまくバランスがとれないようですね」
ティアはそう言うと、クロードとジェドの表情を見て、悲しく微笑んだ。
「私の事、怖いですか?」
ティアにそう言われて、クロードもジェドも気まずそうに顔を伏せる。
ティアは傍らに横たわるスペルに視線を落とすと、悲哀に満ちた表情を浮かべた。
スペルは無邪気な寝顔を浮かべていた。
「スペルの言葉には言霊が宿ります。それは人に刃となる場合もあれば、人の傷を癒す言葉ともなる。とても貴重な存在です。小さい頃から異端である事を理由に、迫害を受けてきたのです、孤独な心が安らぎを求め誰かに縋る気持ちはわかります。それがサンだったのですね」
ティアはそう言いながら、自分の幼かった時の姿をスペルに重ねているようだった。
「……生きたいと思った……か、特別じゃねえよ。そう望んで当たり前さ」
サンもスペルを見つめながらそう言葉を紡ぐ。
「サン、先程黒髪の神様だとか、妖魔だとか言っていましたね。どういう事です?」
「ああ、こいつの力、どうも妖魔が絡んでるらしい……あのB・ロージェがな」
サンの言葉にティアは驚愕の表情を浮かべる。
「アイツがスペルに吹き込んだんだ。スペルにとって俺が守り人だって。そのためにはティアが邪魔だってな。……ったく、傷だらけの心を利用しやがって」
サンはそう言って唇を噛み締めた。
「やはり全てにおいて、妖魔の力が関わってるらしいですね。この街の現状といいスペルの事といい……クロード様、ジェドさん、スペルは素敵な力を持っているのですよ。確かに先程のように人を殺す道具にもなりますが、力をうまく使えるようになれば、病気や傷を治す事も可能なのですから」
ティアはそう言うと、左手の掌をスペルの額に当てる。掌から小さな光が現れそれはスペルの額に吸い込まれるように消えていった。
「スペルが成長するまで力の暴走を防ぐためのおまじないです。クロード様、ジェドさん、スペルが力を悪用しないようにするには、それを教え正しい方向に導く愛情が必要です。今からでも決して遅くありません。スペルができるだけ憎しみという感情を抱かないように、導いてあげて下さい」
ティアはクロードとジェドの方を真っ直ぐに見つめてそう優しい口調で言った。
「だが……」
ジェドは不安げな表情を浮かべながら言葉を呑み込む。
「……きっと大丈夫です。ですから貴方もスペルを差別しないで下さい。力を怖れず人間として愛してあげて欲しいのです。憎しみは憎しみを増やすだけです」
ティアの微笑みにクロードとジェドは静かに躊躇いながらも頷いた。
ティアは深呼吸をしてサンの顔を見上げる。
「サン、もう一つ大きな仕事が残っています。山の怒りの根源を絶ちに行きます」
ティアはそう言うとゆっくりと立ち上がろうとする。まだ体に痛みが残っているのか、一瞬ふら付きバランスを崩す。咄嗟にサンがそれを支えた。
「こんなんで大丈夫か?」
「……私の持っている力、こういう時に使わなかったら、宝の持ち腐れでしょ?」
サンの心配する顔をよそに、ティアはそんな事を口にする。
「……まったく……そんな皮肉を言うなよ」
サンのその言葉にティアは柔らかく微笑んでいた。