〜開かれた扉〜
アクアはゆっくりと立ち上がり、その美しい姿を漂わせながら、壁に刻まれた紋章の所まで歩いていく。
「この場所は聖域、マヤが神と対話する場所であった。神と対話する時、この聖域に何人たりとも入る事は禁じられ、我の存在であっても、それは例外ではなかった。マヤがこの聖域で何を知り、何を語っていたのかそれはわからぬ。ただ今はっきりしてる事、それはこの世に何か途轍もなく不吉な事が近付いている事」
アクアはそう言いながら、三人の方を振り返った。
この言葉にはシェルも驚いていた。
サンに抱かれているティアの震えが一瞬止まり、サンの装束をティアは握り締めていた。
サンはそんなティアをよりいっそう強く抱きしめる。
「我が主と認める者がここを訪れた時、この世の真実が明らかになるとマヤは言った。この封印を解くには、扉を開くための鍵になりし者、そして扉を開くための念の持ち主が必要。だから悪いとは思ったが、そなたの心を確かめさせてもらった。」
アクアの言葉に、サンは思い出した。先程、この場でティアが死んでしまうのでないかと思い、大切な存在を奪わないでくれと、強く願った事を。
サンは、アクアの掌で転がされていた事に気付き、鼻で笑う。
「アクア、お前が言った、挑発ってのはそういう意味かよ! 鍵になりし者はティアで、念を持つ者が俺だってのか?」
「その通りだ」
サンは淡々としたアクアの顔を見ながら、少し苛立っていた。
アクアは言葉とともに静かに頷く。
「この封印を解くのにティアの存在が必要で、ティアにその資格があるのはわかるが、なぜ俺の存在までもが必要なんだ?」
サンがそう言うと、先程までサンの装束を握り締めていたティアが、ゆっくりと顔を上げ、サンの茶色の瞳を真っ直ぐに見つめると、静かな口調で言葉を紡ぐ。
「それはきっと……私の中で……貴女がかけがえのない存在になっているから」
ティアの翡翠色の瞳は揺れていた。
またそんな事を何の躊躇もなく言う……サンはティアを見ながらそう思っていた。
アクアはティアの言葉に微かに微笑み、サンの方に視線を移すと、サンを見つめて意味ありげに微笑んだ。心を見透かすような瞳をしていた。
「サン、私は此処に来て良かったのどうか……わからないのです。結局、私の事で貴女まで巻き込んでしまった」
ティアはサンの頬を優しく触ると、切なそうに瞳を揺らしそう言った。
サンは心を震わせる。違う! と、そう思っていた。
ティアの俺に対しての素直な混じりけのない思い。それは前々からわかっていたはずだ、ただ俺がそれを受け入れる事を拒否していた。人を信じる事、信じてしまう事を怖れていた。
アクアにはきっと俺の気持ちを悟られているだろう。まったく……サンは溜息を一つつく。
サンは真っ赤な髪の毛を揺らしながら立ち上がると、座り込んでいるティアに手を差し出し口を開く。
「ティア、俺は此処に来てよかったと思うよ。今までお前の中に隠されていたものを見る事ができた。確かにそれは目を背けたくなる現実かも知れない。お前には悪いが、俺はいつのまにか、お前の全てを知りたいと思っていたのかもしれないな」
サンはそう言うと、ティアに顔を向けて可愛らしい笑顔を浮かべた。
「サン……それは……」
ティアは瞳を見開き、サンを見つめる。
「そうだな……お前と会った時から、俺の中にはあったのさ、お前を失いたくない、失ってはいけない、そんな思いがな。だから、俺は自分で望んで此処にいる。巻き沿い? それはお前の勘違いだ」
サンはそう言って、茶色の瞳を凛と輝かせる。男を装って生きてきた現実に逃げ、ティアへの思いを持ちつつも、その思いを見ないようにしていた自分を再認識する。そんな自分を認める事で、本当の素直な自分の気持ちを直視する事ができた。
ティアは切なさを含んだ笑みを浮かべて、サンの手を握り締めた。
「鍵なる存在だけでは扉を開く事は不可能。マヤが我が主に求めたもの。それは愛される人間になり、また人を愛する心を持つ事。マヤの命をかけた賭けだった。それだけこの封印に閉じ込められている物とは大きい事柄なのかもしれぬ」
アクアは淡々とした口調で言葉を紡いでいく。シェルは眼の前の二人の姿を慈しむかのような瞳で見つめていた。
ティアはサンに引っ張られるように立ち上がると、サンを見つめて真っ赤な髪の毛を優しく撫でる。
何度もサンの言葉に助けられた。凛と輝くサンの思いに温かさを感じ、いつでも傍にありたいと望む自分がいた。
ティアは心の底から、言葉では表現仕切れないほどの思いが溢れてくるのを感じていた。
何度もティアのあの温かい笑顔に癒された。そして守りたいと、失いたくないと強く思う自分がいた。この思いを言葉で表現するなら、愛と言うのかもしれない。
サンはティアの翡翠色の瞳を見つめながら、そう心の中で呟いた。
ティアの心の中にあった小さな光が、徐々に大きくなって広がっていく。それは体中に浸透し、優しく温かく心地のいい感覚だった。
ティアはサンの背中に手を回すと、ゆっくりと自分の方へと引き寄せ抱きしめた。そして優しくサンの首筋へと顔を埋めると、首筋に優しい口づけをした。
サンはそれを素直に受け入れていた。そっと目を閉じ、ティアの心の温かさを感じていた。
人間であるとかそうではないとか、女であるとか男であるとか、そんな固定概念を超えた、何者にも囚われない思いが二人を包んでいるようだった。
ティアの中で血液が温められ、体の芯に熱を感じる。鼓動が耳元で聞えていた。
胸の刻印が燃えるように熱かった。
サンはティアの体から熱を感じていた。
ティアの体を包むように、月の光のような優しい光が放たれる。漆黒の髪の毛が吹き上げられるように揺れていた。
退魔の剣が鳴いている。二人の心に共鳴しているようだった。
水には波紋が広がり音を奏でる。壁に刻まれた紋章が光を発し金色に輝いていた。
アクアもシェルも、その様子を固唾を呑んで見守っていた。
ティアの中で、音にならない音が響く。それは何かが砕け散る音と似ていた。それと同時にティアを包み込んでいた光がよりいっそう強い光を放ち、洞窟全体に広がっていく。
ティアは胸の刻印に激しい痛みを感じる。痛みに堪えながら、サンに優しい笑みを浮かべると静かに体を離した。光の中のティアは静かな美しさに満ちていた。
光の中で、ティアは懐かしい響きの持つ声を聞いたような気がした。
自分でも気付いていた。封印が解かれる。この街も私自身も……
光りは眩い光を発しながら膨れ上がり、洞窟から光は漏れ、美しい音とともに街全体に広がっていく。小川に張り巡らされていた氷はこっぱ微塵に粉砕した。
あっという間の出来事だった。光は一瞬にして弾けると、虹色に輝く光の粒と化し、大地に降り注ぐ。
虹色の粒が漂う中で、ティアは胸を押さえて佇んでいた。
ティアはゆっくりとサンの方を向く、右目は翡翠色に輝き、左目は真紅に染まっていた。今までのティアとは何処となく違う雰囲気を漂わせていた。
「ティア……その瞳」
サンの呟きに、ティアはいつもとなんら変わる事のない、優しい笑みを浮かべると、サンに近づいて行く。
「そんな心配そうな顔をしないで下さい。大丈夫ですから……サン、剣を借りますよ」
ティアはそう言って、サンの鞘から剣を抜くと、池に近付き、剣の刃を自分の掌に乗せ、優しく手前に引く、掌からは鮮血が流れ落ちた。
ティアは水の上に手をかざし、自分の血を水の中に落とす。真紅の雫が水面に落ちた瞬間、水面一面から光が発せられ、それは周りを囲む石の壁に注ぎ込まれるように輝いた。
「これは……」
シェルは驚愕の表情を浮かべながら、周りの壁を見渡していた。
石の壁一面に文字が現れたのだった……だがその文字はこの世に存在しない姿形をしていた。
「ここに書かれてる事柄が、この世の真実。我が主よ、そなただけには読めるはず」
アクアの言葉に、ティアはゆっくりと壁に向う。そして左右の色が異なる瞳で、真っ直ぐに文字を見つめる。
ティア自身もこんな文字を目にした事がなかった。だが不思議な事に読めてしまう自分がそこに存在した。まるでそれはティアの中に流れる血が教えてくれているようだった。
ティアはゆっくりと言葉を紡いでいく
「我は光であって闇である、闇であって光である。光と闇は表裏一帯、己の中に存在するもの。闇から光は生まれ、光から闇は生まれる。混沌の世は恐怖にまみれ、争いを生み、根深い憎悪と悲しみをもたらし渦を巻く。心の闇は形となり人を喰らう……」
ティアはそこで言葉を紡ぐと口を噤んでしまう。だた頭の中には次々に言葉が浮かんできていた。
ティアは壁に手を当て、その場に座り込んでしまう。
「どうした、ティア?」
「……この世の真実……これが真実ですか」
ティアは壁に浮かぶ文字を見ながら、自分の中に言い聞かせるようにそう呟いた。
「ティア様、どうしたのじゃ?」
シェルもティアに近付き、ティアの顔を覗き込みながらそう聞く。
「ここに書いてある事は、全てを口にしなければいけませんか?」
ティアは俯き、眉間にしわを寄せながらそう言った。
ティアのその言葉に、サン、シェル、アクアの三人は、この壁の刻まれた文字の重要性を重く感じる。それは何かはわからない。だた途轍もない驚愕の事柄が記されている事は、ティアの様子から見て取る事ができた。
「マヤ様からの言葉は、貴方様だけが知る権利があるのです。それを全て口にせずともかまいませんよ。今は貴方様が我等の主なのですから、貴方様の御心のままに」
シェルの言葉にアクアも賛同していた。
「少し時間を……色々と考えたいので……」
ティアはそう言うと、悲しみに満ちた表情を浮かべていた。