〜水の洗礼〜
それは凄まじい光景だった。
この街は街の名前の如く、水に恵まれた街だったはずである。ところが今は水という水は凍りつき、この状態では作物や植物は生きていけるはずもなく。草木は枯れはててしまっていた。
かろうじて生命力の強い雑草だけが、建物の残骸の合間から生えていた。
サンとティアは街の中を歩いてた。人の気配がしない。虫一匹存在してないようだった。
街の中に寒々とした風が吹く。
二人の眼の前に、噴水が見えてきた。今では水が出ていない噴水。
たぶん、ここが街の中心部なのであろう。
サンは自分の周囲を見渡す。建物は朽ちはて、もはや建物の形をとどめてはいなかった。
ティアは噴水を取り囲んでいる、コンクリートに腰を下ろすと溜息をついた。
「リンが言っていた通り、この街にはもう人が住んでいないのかもしれないな。ティアはここで休んでろ。俺は近くを見てくる。すぐに戻るからここにいろよ」
サンは何の気配も感じない事に、違和感を感じながらそう言った。
「わかりました」
ティアの言葉に、サンはティアに背を向けて歩き出し、建物の残骸の陰へと姿を消していった。
ティアは、噴水の凍ってしまった水を手で触れる。すると指に冷たい感触とは別の何かを感じた。ティアの指が触れた所から氷が解けて行く。
ティアはその光景を息を呑み見つめていた。今の今まで流れていなかった水が流れ出す。
「いったい、これは……」
ティアは立ち上がり、水を湛えた噴水を覗き込んだ。水面には自分の姿が映っていた。
サンは周りに注意を払いながら、ゆっくりと歩く。
人間が住まなくなった街といっても。少しは何かの気配を感じるものだ、だがこの街には何の気配も感じない。
おかしい……サンはそう思いながら足を進ませる。
足元は所々が凍りつき、気をつけないと滑って転んでしまいそうだった。
何処を歩いてもあるのは建物の残骸と、伸び放題に伸びた雑草だけ。
サンは溜息をつきながら、建物の残骸に腰をかける。足元にある水溜りは凍っていて、まるで鏡のようにサンの姿を映していた。
サンは不自然なほどに青い空を見上げる。
あの川を渡った時のティアの様子では、絶対にこの街には何かがあると思ったが、期待はずれだったか……
サンはそう思いながら、目を伏せ真っ赤な髪の毛を掻き揚げる。
刹那、雫が落ちるような音がした。
サンは咄嗟に顔を上げ、周りに鋭い視線を向けながら、様子を伺う。
空耳!? いや、今、確かに水の音がした。サンは耳を澄ませ、微かな音も聞き逃さないようにする。
音にだけ集中しすぎて、他への集中力が散漫になっていた。
サンは足元にヒンヤリとした感触を感じ、自分の足元を見つめた。
「何!?」
そんな言葉がサンの口から聞えたかと思うと、サンの姿は一瞬にして消えてしまった。
後には、先程まで凍っていたはずの水溜りが、ユラユラと波紋を広げていた。
ティアは噴水の水を優しくすくうと、その水を水の中に落とす。水は波紋をつくり広がっていく。
ユラユラと揺れる、水面がおとなしくなったかと思うと、そこにはサンの姿が映った。
「サン!?」
ティアはその光景に息を呑み、咄嗟に水の中に手を入れる。だがそれはただの水で、ティアが手を入れた事で、水は揺れ、サンの姿を消してしまう。
ティアは咄嗟に水から手を抜き、水面を凝視しながらおとなしくなるを待つ。
水面が静かになる。
サンの姿が映った。サンはまるでティアの眼の前の水の中で溺れているように見えた。
「サン!」
ティアが叫んでも、サンに聞えている様子はなかった。
どういう事だ!? ティアは頭の中がパニックになりそうになるのを必死に堪え、唇を噛み締めた。必死にどうするべきなのか、方法を考える。
眼の前でサンの苦しむ姿を見てしまったティアにとって、冷静を保つのは難しい事だった。
新しい感情が生まれた事によって、今まで難なくできていた事が、できなくなてしまう事がある、つくづくティアは思い知っていた。
ティアは漆黒の髪の毛を掻き揚げ、深呼吸をすると静かに目を閉じた。胸に手をあて呼吸を整える。
サン……サン……心の中で念じるように、サンの気を辿っていく。
水の音がする……一瞬の恐怖と苦しい感覚。ティアは眉間にしわを寄せる。ティアの頭の中に一つの映像が浮かび上がった。
薄暗い洞窟。そこには水が豊富にあり。どこからともなく差し込んでくる日差しが、水面に反射して輝いていた。
ティアは静かに目を開く。噴水の水面にはもうサンの姿は映っていなかった。
「……洞窟ですか。あの場所はどこにあるのでしょう」
ティアは溜息混じりにそう呟きながら、周りを見渡し、できるだけ高い場所を探す。
すると遠くの方に高い塔のようなものが見えた。ティアはその塔らしきものに向かって、全速力で走り出した。
薄暗い空間にサンは全身ずぶ濡れの状態で横たわっていた。
生きているようではあったが、気を失っているようだ。
微かな足音とともに、サンの傍へと近付いてくる影があった。白髪を腰の辺まで伸ばし、翡翠色の瞳を持った老婆であった。
生成り色の装束を身に纏い、首には真っ赤な勾玉の首飾りをしていた。
表情は険しいが。纏っている空気は気品に満ちているものだった。
「水が騒ぎ出したと思ったら、退魔の剣の持ち主か……わしの待ち人ではなかったか」
老婆は深く溜息をつくと、そう呟いた。
「う……ん……」
サンは呻き声とともに、ゆっくりと目を開ける。ぼやけた空間は薄暗く。眼の前に赤い石がユラユラと揺れているのが見える。
徐々に眼の前の光景がはっきりしてくる。その石は勾玉だった。
「目が覚めたか?」
サンはその声に驚き、勾玉の持ち主を見上げる。そこにはティアと同じ翡翠色の瞳をした、老婆が自分の顔を覗き込んでいた。
サンは慌てて上半身を起こすと、剣に手をかけた。
老婆は厳しい瞳でサンを見つめていた。
「退魔の剣の持ち主殿、貴女はなぜこのような場所に来たのです。ここには退魔の剣を必要とするような妖魔は存在しませんよ」
老婆は顔色一つ変えず、そうサンに言う。
サンは警戒しながらゆっくりと立ち上がると、薄暗い空間を見渡した。
街の中の水は全てが凍り付いていたというのに、この洞窟にある池は美しく澄んだ水を湛えていた。そしてこの眼の前の老婆の瞳の色。
サンははっきりとした答えを見つけられずにいた、何かが掴めそうで掴めない。そんな感覚に陥っていた。次の瞬間、衝撃が走る。
サンの視界に入ったもの。それは石の壁に刻まれた紋章。
ティアの胸にある刻印とまったく同じ物だった。
サンはその紋章を見た途端、走るように紋章に近付く。
「これは……」
サンの様子に、老婆は訝しげな表情でサンの顔を覗き込んで口を開いた。
「この紋章に見覚えがあるのか?」
老婆はサンの顔を下から見上げるようにそう言った。
「それを答える前に、一つ聞かせろ」
サンは紋章を指でなぞりながら、そう言う。
「何でしょうか」
「お前はいったい、何者だ!?」
サンは自分よりもかなり背の小さい老婆を、上から睨みながらそう聞いた。
老婆はサンの瞳を睨みつける。それは年老いた者の瞳ではなかった。力強くサンでさえ威圧感を感じるほどだった。
「……名のるのは簡単な事、だが、それが本当だと証明はできない。お互いに……です」
老婆は意味ありげに含み笑いを浮かべる。
サンは感じていた。この老婆は全てを信用していない。眼の前にいる俺が退魔の剣を所持していたとしても、それがこの老婆にとって味方である証明にはならないだろう。
第一にこの眼の前の老婆が、生成り色の装束を着て、翡翠色の瞳だからといって、神使とはかぎらない。それと同じだ。
言葉は心の全てを語るわけではない。
サンはそう考えながら、飛ぶように後ろに下がると、柄に手を掛け、いつでも剣を抜けるように構える。
「この場所で剣など無意味ですよ」
老婆はそう言うと、静かに目を閉じ両手を広げる。
「聖なる水よ、命を宿し、悪しき心を消し去れ」
老婆が静かに言葉を紡ぐと、池の水が揺れ始め渦を巻き水柱が立つ。それはまるで触手のようにサンに襲い掛かってきた。
サンは剣を抜き、水柱に向って剣を振り落とす。
剣と水柱が衝突した瞬間、この世にこんな音があるのかと思われるくらい、美しい心地のいい音が響き渡り、洞窟に反響して、音は空に向って響いていく。
水柱は、一気に砕け、飛び散った。雫の一つ一つが虹色に染まっていた。
「何なんだ、これは……」
サンは眼の前の光景に驚いていた。
虹色の雫はサンに優しく降り注いでくる。雫が退魔の剣に落ち弾けると、剣が震え甲高い音を響かせた。洞窟に響き渡っている美しい音に、共鳴しているかのようだった。
老婆は、先程までの険しい顔とは違う、柔らかい表情を浮かべ、サンをただ見つめていた。