〜落下〜
城の中に入ると、中はひっそりと静まりかえっていて、人の気配どころが、そこに空気の存在がある事を忘れてしまうかのようだった。
この空間自体が妖魔の力によって、作られたものなのかもしれない。
こんな形状の城があるわけがない。広間や廊下、扉の一つも無く、あるのは手すりの無い大きく回っている螺旋階段のみ、城自体が円筒の形をしているために、壁に沿って階段があり。螺旋の中心部は吹き抜けになっている。
ティアは口を手で押さえ苦しそうに顔を歪める。
「どうした?大丈夫か?」
サンはティアの顔を覗き込みながらそう聞いた。
「……ええ、まあなんとか、凄いですね此処は、まるで闇の世界そのもののような気さえします。邪悪な気が充満していて、気持ちが悪くなります」
「そうだな。能力の無い俺でさえ、纏わりつく嫌な感じを感じる。それにここに入った途端、退魔の剣が騒いでる」
ティアの言葉に、サンはそう言って、気の遠くなるほど続く螺旋階段を見上げた。
「上と下、どちらから行きますか?」
「もちろん、上だろうな」
ティアとサンはそう言うと、細い螺旋階段を上り始める。
この城の形状は、人を遠ざけるには都合よく出来ている。ちょっとでも気を緩めて足を踏み外せば。闇の中へと落ちていく。そんな階段を好き好んで昇る者などいるはずがない。
サンもティアも何事も無く、上まで昇ることは無理だろうと思っていた。
どのくらいの時間が経ち、どのくらいの階段を上ったのだろうか。永遠にこの階段は続くのではないだろうかというような錯覚にさえ陥っていきそうだった。
前を歩くサンの後ろ姿を見つめながら、ティアの足取りが重くなっていく。
夢魔の一件で力を使ったせいもあるだろうが、それとは別の力が、ティアに悪影響を及ぼしているようでもあった。
後ろを歩いているティアの足音が、少し遠くなったのを感じて、サンは後ろを振り返る。
ティアは壁にもたれながら息切れをし、苦しそうに顔を歪めていた。
「つっ……」
ティアの胸に痛みが走る。その痛みにティアは胸を押さえ、その場に座り込んでしまった。
「ティア!?」
サンはティアのその姿に驚き、階段を慎重かつ急いで降りて行く。
ティアは壁を背中にして、吹き抜けになっている階段を見上げていた。
「ティア、大丈夫か?」
そう言いながらサンは、苦しそうに胸を押さえるティアを見て思い出していた。
ティアが押さえている場所には、あの刻印がある。サンの心の中に理由の無い不安が押し寄せる。何か良くない事がティアに起こりそうなそんな予感だった。
ティアはいきなりサンの手を握りしめる。サンはティアのその行動に驚いた。
「ティア!?」
サンの言葉をまるで無視すかのように、ティアはサンの体を自分の方に引き寄せ抱きしめる。
「しっ……静かに、少しの間だけこのまま」
ティアの優しい声がサンの頭の上で響いている。サンにはこれが何を意味しているのか全くわからなかった。
「サン、私の胸にある刻印、見た事ありますよね?」
ティアは心地のいい声で言葉をゆっくりと紡いで行く。
「幼い頃、主様が私に言った事があります。私の胸にある刻印は、お守りだと、私を守るためのお守りなんだそうです。今までは自分の限界に近いような力を使った時にのみ、現れていたこの刻印が、今は何もしないのに現れている……どういう事なのでしょうね」
ティアの話口調は疑問ではなく、自分の中に答えを見出しているように聞えた。
「それで? それとこの状況と何の関係があるんだ?」
サンは意図的にティアを突き放すような強い口調でそう言った。
「……そうですね。サンを抱きしめれば少しは痛みがひくなあ……なんて思ったんです」
「なんとなく」
サンとティアが声を合わせてそう言った。サンにとってはそれは狙いだったのかもしれない。ティアはそんなサンの意図に気付いているかはわからないが、自分の声とサンの声が重なった事に噴出し笑い声をたてた。
「ティア、俺は俺で、お前はお前でしかない、その他に何がある」
サンの言葉にティアは笑い声を止め、真紅の瞳を見開いてサンを見つめる。
サンの意志の強い瞳。他意を入り込ませない雰囲気、その全てがティアには眩しかった。
異質な者に対しての差別や恐怖、そこから生まれる憎悪や迫害、そんな全てが単純明快な言葉で吹き飛んでいく気がした。
「サンの言葉はわかりやすくて、とても嬉しい」
ティアはそう言うと、サンを抱きしめていた手を緩めた。サンはティアから離れるとティアに向って溜息混じりに笑顔を浮かべる。
ティアは左側の腕だけを装束から出し、刻印のある胸の部分を露にする。華奢なわりにはしなやか筋肉のついた胸には、刻印が色濃く浮かび上がっていた。
「サン、匂い袋持っていますよね? 抱きしめた時に仄かに香りました」
「え!? ああ」
「貸して貰えますか?」
ティアの言葉に疑問を持ちながらも、サンは腰にぶらさげていた袋から匂い袋を出す。
「この香り、退魔の香ですね」
ティアはそう言って、匂い袋をサンから受け取ると袋を開く。
「そうだけど、これをどうするんだ?」
サンは眼の前に現れた、ティアの胸に色濃く現れている刻印を見つめていた。
ティアは袋の中の粉を自分の周りに振りまく。
「香りをわが身を包み守れ」
ティアの心地のいい声が響くと、香りの粉はティアの体を包み、頭上の明り取りの窓から差し込む、日差しに照らされ金色に輝いた。
キラキラと輝く中にあるティアの姿は幻想的な姿に見えた。
胸の刻印の色がほんの少しだが薄くなっていく。
「この香があって助かりました。この刻印、周りの強い気に反応していたみたい……」
ティアはそこまで言うと、上に何かを感じたのか頭上を見上げた。そしてサンの肩に手をかけると壁にサンの体を押し当て、サンに背を向けるように何かからサンを守るようにすると、中央に広がる空間に目を向ける。
上から何かが風を切りながら落ちてくる。
ティアの視界にその物体が入ってきた瞬間、その物体がティアの眼の前の空中に浮かび静止する。
夢魔だった。
夢魔はニヤリとティアに向けて笑みを浮かべると、ティアの眼の前でこっぱ微塵に破裂する。血が飛び散り、壁や螺旋階段、勿論ティアにも血が降りそそぐ。
ティアは瞬時に自分とサンの体を光で包む。飛び散った血は光の中には入ってはこれなかった。
血液が付着した場所から湯気が立ち溶け始める。
壁に穴が開き、階段の段も無くなっていく。ティアの足元も溶け始め、ティアの体が足場をなくして落ちる。咄嗟にサンが手を伸ばしてティアの手を握り締めた。
ティアの体は宙に浮いた状態で静かに揺れていた。
「……くっ」
サンがティアの手を握った時に、どこかにぶつけたのかサンの腕から血が伝って流れ落ちていた。
「ふん、下品なやり方だな。翡翠色の瞳を殺すな言ったはずなのに」
冷ややかな声とともに姿を現したのは、長い黒髪を靡かせ、真っ赤な唇に笑みを湛えたB・ロージェだった。
B・ロージェは吹き抜けの空間に浮かびながらサンとティアを見つめていた。
「夢魔に落とし前をつけて来いって言ったら、この始末だ。低能な輩はやり方が汚くていけないね」
B・ロージェはそう言ってほくそ笑んだ。
サンもティアも言葉を発する余裕は無かった。ティアの頬にサンの血が落ちる。白い肌に赤が鮮やかに浮き上がっていた。
「さあ、どうしようかしらね。そこのお嬢さんには死んでもらうとして、どんな死に方がお好みかしら。やっぱり苦痛に歪む顔が見たいわね」
B・ロージェはそう言うと、サンに向けて指を指す。すると赤い光がサンの体の表面を走り、光はサンの装束とともに皮膚をも切り裂いた。
サンは痛みに顔を歪める。それを愉快そうにB。ロージェは見ていた。
「次はその翡翠色の瞳と、手を繋いでいる腕を切ってやろうかしらね」
B・ロージェはそう言うと、長く鋭い爪を舐めてゆっくりとサンの方へと指を指して行く。
その時だ、ティアの視界に青く光る小さなナイフが目に入った。手の中にスッポリと隠れてしまうくらいの大きさだった。サンの腰の布袋から飛び出した物らしい。
ティアはサンと手を繋いでない方の手を持ち上げる、いきなりティアが体制を変え始めたせいで、サンの手には重さが余計にかかり顔を歪めた。
今にも落ちそうになっているそのナイフを手に取ると。サンに言葉をかけた。
「サン、落ちますよ」
ティアはそう言うと、サンを力の限り自分の方に引っ張る。
「何!?」
ティアの行動にサンは驚き、突然の事に声をあげる暇もなかった。
サンの体をティアは引っ張るように引寄せ抱きしめると、頭から下に落ちていく。
B・ロージェは眼の前の予想していなかった光景に、一瞬反応が遅れたが、二人が落ちていく姿を急いで追う。
ティアの視界に空中を落ちるように、追ってくるBロージェの姿が目に入る。ティアは手に持っていた。ナイフに一気に気を込めてB・ロージェに投げつけた。
ナイフは目に見えぬほどの速さでB・ロージェに飛んで行く。
「ぎゃああああ」
B・ロージェの悲鳴が響き渡る。ナイフはB・ロージェの瞳を捉えていた。