〜黒い渦〜
藁葺き屋根の家の中は干草独特の匂いがしていた。
ティアは横になっている老人の傍らに胡坐をかき、何かを待っているのかその場を片時も動こうとはしなかった。
サンはそんなティアの後姿を見つめながら、剣を自分の横に置き胡坐をかいて座っていた。
「次の神使には、ティア、あんたがなるんだろう?」
サンはティアの背中にそう聞く。ティアの着ている装束の色といい、ティア自身が持っている雰囲気、瞳の色といい、その全てが神使の特徴を強く象徴し、サンに強くそう思わせていた。
ティアはその言葉にサンの方を振り返ると、優しい笑みを浮かべて形の良い唇を開く。
「跡継ぎは、そこにいるリリーです」
淡々とした口調だったが、そこにはリリーに対しての深い信頼を感じさせた。
「リリーが神使だって、だって俺よりも年下だぜ」
サンはリリーを見ながら、鼻で笑いそう言った。リリーはその言葉を予想していたのか、怒る事は無く、逆にサンの言葉に対して愉快そうに大きな声で笑った。
「サン殿、見かけに囚われてはいけません、リリーはこれでも私よりも年上ですよ」
ティアはそう言いながら、サンを見つめて優しく微笑む。サンはその言葉に口を開けたまま驚いていた。
ティアの年齢は聞いてはいないが、どう見てもサンよりも長く生きているように見える。見た目や雰囲気の落ち着きを除いても、年下には見えなかった。
「ティアは生まれて何年だよ」
「私は……はっきりとはしませんが、主様が私を育ててくれるようになってから21年になります」
ティアは少し悲しい陰のある表情でそう言うと目を伏せる。
主様が育ててくれるようになってから。その言葉にティアが何らかの事情で親ではなくこの老人に育てられたと言う事がわかる。ティアの表情からして、深い事情があるに違いない。サンはティアの様子を見て一瞬、まずい事を聞いたか?と思ったが、一度口に出した言葉を戻す事はできない。
「……俺もさ、両親を早くに亡くして、爺さんに育てられたんだ」
サンはそう言いながら鼻の頭をポリポリとかいていた。その言葉にサンの優しさを感じ、ティアは顔を上げ、柔らかい表情を浮かべた。
「サン殿、貴方は優しいですね」
ティアはそう言いながら、サンを温かい瞳で見つめた。喩えるならそれは母性が持ち合わせている福与かな温かい雰囲気に似ていた。
サンはティアのその瞳に、喩えようのない懐かしさを感じ、体中の血管が力強く脈打つのを感じていた。不思議な感覚にサンは戸惑っていた。
「それで、リリーは生まれて何年になるんだ?」
「34年」
リリーは艶やかな響きの声でそうポツリと言った。
どう見ても34年も生きている女性には見えない。なぜこのような姿形なのか、サンは眼の前の少女、否、女性の不思議さに顎が外れるのではないかと思うくらい、口をあんぐりと開け驚いていた。
あまりにもその表情が間が抜けていて可笑しかったのか、リリーは軽快な声で笑う。
そんな二人を見ながら、ティアも柔らかい表情を浮かべ微笑んでいた。
つかの間の温かく優しい時間を、サン、ティア、リリーの三人は過ごしていた。
空は太陽の名残を微かに残し、夕闇に包まれていた。
「……た、大変だ!」
そんな声と共ににわかに家の外が騒がしくなりだした。ティアは眼の前の老人に目をやり、老人の口に耳を近づけた。ティアの表情が途端に悲しみに染まり、唇が微かに震えだしていた。老人の呼吸が薄くなってきている。
老人は神使として100年以上の歳月をこの白い街を守るために勤めてきた。その役目を今閉じようとしている。
サンは横に置いてあった剣を手に取り立ち上がると、家のドアを開けて周りを見る、街を守るように立ち込めていた霧が色薄くなり消えてしまっていたのだ。
人々はそれが何を意味するのか分かっていた。結界が消え、妖魔がこの街に入り込んでくる。途轍もない恐怖に苛まれ逃げ惑い、無駄な事だとわかってはいても自分達の家へと逃げ込んでいく。恐怖に怯える心は妖魔をより引き寄せる要因にもなる。
サンの眼の前に一人の子供が立ち止まり、家の中にいるティアの姿を見つめていた。瞳は何かに怯え震えている。子供は何か言いたげにティアに向い一歩踏み出した、その刹那。
「何をしてるの! 早く家に入りなさい。あの化け物の巻き沿いをくうよ!」
子供の母親らしき女が子供の手を力強く握ったかと思うと、ティアを睨みながらそう言い、子供を引きずるように立ち去っていった。
女が言った、化け物、それは確実にティアの事を指したものだった。
あんなに美しく優しい表情を浮かべるティアに対して、なぜそんなに怯えるのか……ティアは「今にわかる」と言ったが、サンには予想すらつかなかった。
「サン殿、始めますよ!」
家の中から凛としたティアの声が聞こえてきて、サンはそれに反応するかのようにティアの方を振り向いた、刹那、目を背けたくなるような光景が視界に飛び込んできた。
ティアは老人の両目に指を突っ込み、聞き苦しい寒気の走るような音を立てながら、目を抉り取ったかと思うと、血だらけになった両手に瞳を持っていた。老人はすでに息絶えており、痛みに対しての反応は無かった。
サンは声を上げそうになった。それを口を押さえ必死に堪えた。
「主様のご意思です。ご自分の瞳を貴女の瞳として役立てて欲しいとの遺言です」
ティアは翡翠色の瞳を揺らしそう言葉を紡ぐと、老人の瞳をリリーの目の位置に持っていき、その何もない皮膚に瞳を接触させる。ティアの手の平から柔らかい眩い光が発せられ、見る見るうちに老人の瞳はリリーの瞳として輝き始めた。
「人体再生能力……」
サンはそう呟き、その光景を息を呑んで見つめていた。
人体再生能力、心臓が動いている状態であれば、人間の傷ついた体を元に戻せる力。だがティアがサンの眼の前でやってのけた現実は、もっと異質で強大な力を感じさせた。
ティアはリリーの瞳に手をかざす。温かい光がリリーの顔を覆っていた。
「サン殿、こちらの方はまだ少し時間がかかります。妖魔が近づいてきている。外を頼みます」
ティアは翡翠色の瞳をサンに向けると、大きな声でそう叫んだ。
遠くの方から、空気を揺らすように地を這うような異様な闇の声が微かに聞こえて来ていた。
サンは外に出ると手に持っていた剣を鞘から抜き、両手でしっかりと柄を握り締め、薄暗くなった空を見上げると、その異様な声の方を睨むように身構えた。
木々たちの向こう側、宵闇の青い空から、黒い渦を巻き地響きをさせるように、その異様な空気が近付いてくる。
「フン! 自分の勘に惚れ惚れするね。賞金首の妖魔がおいでなすった」
サンはニヤリと口元を歪め、皮肉っぽい笑みを浮かべた。
黒い渦はサンの頭上近くまで迫っていた。
サンの頭上で凄まじい音を立てながら空気を歪ませ、風を巻く黒い物体。その物体はそのまま音をさせながら地上に下り、風を巻くスピードが徐々に弱まっていく。空気の歪みも消え、凄まじい風の音も消えた静寂の中に、サンの三倍はあろうかと思う程の黒ずくめ大男が、真紅の口を愉快そうに歪め立っていた。
サンは鋭い眼光で大男を睨みつけ、刃先を向けた。ほんの少しの空気の動きも見落とさないように、神経を張り詰め集中した。
二つの影は微動だにせず、お互いの動きを探り合っているように見えた。
サンの耳元を風の音だけが微かに通り過ぎて行った。