〜独占欲〜
太陽が山の陰から顔を出し、明るい日差しが洞窟の中にまで入り込んできていた。
リッパーはティアの顔を見つめながら、自分が幼かった頃の事を思い出していた。
いきなり闇の世界から現世へと引っ張り込まれてしまったあの時、最初に出会った人間がシャイニンで良かったとつくづく思っていた。
もしかするとリッパーにとってシャイニンが、初恋の相手だったのかもしれない。
容姿そのものは前世とは少し異なっているが、もってる雰囲気はあの時のままだった。
「真紅に変わる翡翠色の瞳……か」
リッパーは意味ありげに切なそうに微笑むと、微かにそう呟きながら、ティアの頬に優しく触れる。金色の睫毛が日差しを受けて輝いていた。
ティアの睫毛がゆれ、瞼がゆっくりと開き、翡翠色の瞳が姿を現した。
眼の前数センチの位置にリッパーの顔があり、今にも唇が触れそうな近さだった。
「リッパー、おはよう」
ティアは唇が触れそうな位置に、リッパーの顔がある事にも動揺せず、柔らかい笑みを浮かべるとそう優しく言った。
リッパーは面白くなさそうに、ティアから顔を離すと不機嫌な表情を浮かべる。
ティアはゆっくりと上半身を起こす。体にはまだ少し痛みが残っていた。
「サンはどうしました?」
ティアはそう言いながらサンの姿を探すが、見渡してもティアの視界には、サンの姿は無かった。
リッパーはそんなティアを横目に、顔を逸らし知らん振りを決め込んでいた。その姿には何百年も生きている、妖魔の風格めいた雰囲気は感じられなかった。
「リッパー、私が眠っている間に何がありました?」
ティアはそう言いながら、鋭い視線でリッパーを見つめる。
リッパーは胡坐をかき、無言で俯いていた。リッパーの姿にティアは自分が眠っている間に、リッパーがサンに何かを言ったのだと気付く。
ティアは立ち上がると、小走りに外に出ようとした。
「なぜだ!? アイツはお前を殺そうとしたんだぞ!」
ティアの背後からリッパーの声が響いた。ティアは足を止め、リッパーの方を振り返ると、悲しい瞳で口を開いた。
「違いますよ。サンが殺そうとしたのではなく、夢魔がサンの心を利用したんです。リッパー、私はサンを傷つける者は誰であろうと許しません」
ティアは凛とした強い光の持つ瞳でリッパーを見つめた。まるでその言葉はリッパーの行動に向けられているようにも聞えた。
「シャイニン、俺がお前を守ってやる。だからあんなヤツ放っておけよ」
リッパーはまるで子供のように、今にも泣きそうな表情でティアを見つめる。ティアはリッパーに静かに近付くとリッパーの両方の頬を、優しく手で包むように触った。
「何百年も昔、貴方にとって私はどんな風に映っていたのでしょうね」
「俺はお前が大好きだった。好きになるのに理由なんて無い。人間だからとか妖魔だからとか、そんな事関係ない。俺にとってシャイニンはシャイニンだった。お前との時間は何百年も心の底にしまってきた大事な記憶だ。だからお前だけは守りたい……守りたいんだ」
リッパーはそう言うと、泣きながらティアの装束の袖を握り締める。その姿にティアは何かを思い出したような表情を浮かべた。
「ヴァン・ルビー、B・ロージェ。貴方と同じく姓を持ち、人間と同じ言葉を話す妖魔を私は知っています」
ティアのその言葉にリッパーは一瞬ピクリと反応する。リッパーの反応を見つめ、ティアは悲しく微笑んだ。
「やはりそうでしたか。この真紅に変わる翡翠色の瞳に何があると言うのですか?」
ティアの問いにリッパーはほんの少しの躊躇を見せるが、ゆっくりと口を開いた。
「俺は知らない。ただ闇の世界で絶対的な存在である、闇王がそれを欲しがってるのは確かだ。今はまだ自分の配下にやらせているが、それでも埒が明かなければ、本人が出てくるかもしれない」
リッパーはそう言うと手を力の限り握り締めていた。それは何かに対しての怯えなのか、それとも強大な力への反逆の意思なのか。それはリッパーにしかわからない事だった。
「貴方はどうなのです?」
ティアは翡翠色の瞳で真っ直ぐにリッパーの瞳を見つめる。美しい幻想的な色の瞳だった。
リッパーは口元を歪め、ニヤリと笑みを浮かべる。
「ああ、そうだな。お前を闇王に献上すれば、それなりに俺を認めてくれるんだろうけど……俺は、そういう事にあまり興味がなくてね。俺が興味を持ってるのはお前の存在だけだ」
リッパーはそう言うと、ティアに抱きついた。
ティアは抱きついてきたリッパーを、揺れる瞳で見つめながら優しく頭を撫でる。
「リッパー、私も貴方の事が大好きでした。ただ、シャイニンはもうこの世にはいない。今の私はシャイニンではなくティアなのですよ」
「そんな事、わかってる。だけど、だけどお前は俺だけを見てろ。よそ見するな!」
リッパーは激しい口調でそう言うと、ティアの体を押すようにして、自分の体重をかけると地面の上に倒す。そしてティアの額に鋭い爪の突きつけた。
「……リッパー」
「命乞いしろよ。そうしたら俺の物になるって、条件付きで助けてやる」
リッパーは冷やかな瞳で、ティアの顔を覗き込んでそう言葉を紡ぐ。
「リッパー、もう過去には戻れない。今現在の私の体も心も誰の物でもなく、私だけの物なのです。誰の意思にも従いません」
ティアは強い意志を感じさせながら淡々と言葉を紡ぐと、静かに瞳を閉じた。それは自分の意思の無い人形になるくらいなら、死を選ぶと言っているように感じられた。
こんな簡単に命を捨てたら、サンに怒られるでしょうね。ティアは心の中でそう思いながら微かに微笑んだ。
ティアは額に柔らかく温かい感触を感じる。それはリッパーの唇の感触だった。
「ったく。腹立たしいくらいに俺はお前に惹かれてる。目を閉じてる姿はまるでどこかの姫君だな……確かにもう過去には戻れない。そして今眼の前にいるお前は、シャイニンじゃないって、事だよな」
リッパーはそう言うと、自分の姿に滑稽さを感じたのか鼻で笑った。
リッパーはティアから離れ立ち上がると、ティアに手を差し出した。ティアはその手を握り締め、リッパーに引っ張られるように立ち上がる。
「シャイニン、じゃなかった。ティア、サンを探しに行くんだろう? 悪いが俺はそこまで偽善的じゃねえから、これで消えるわ。今度もし会えたとしたら、敵になってるかもしれないな」
リッパーはティアに背中を向け、淋しそうにそう静かに言葉を紡ぐと、一瞬にして黒い影と化し空気の中に消えてしまった。
「……敵ですか」
ティアはそう呟くと、自分の瞳を手で覆い、深い溜息をついた。
外からの風がティアの髪の毛を揺らして通り過ぎて行く。ティアは漆黒の髪の毛を掻き揚げると、翡翠色の瞳を凛と輝かせ歩き出した。
「朝食までご馳走になって。申し訳ない」
サンはアランの母親にそう言い、食器を台所に片付ける。
「母さん。約束忘れてないよね?」
アランはそう言いながら母親の腕にしがみ付きながら、無邪気な笑顔を浮かべる。
「それがね、母さんまた急用ができて行けなくなったのよ」
母親は残念そうに表情を曇らせてそう言う。
「ええ、今日は街まで一緒に行くって約束したじゃないか!」
アランは街に行く事を楽しみにしていたのか、半分泣きそうな顔をして母親を見つめていた。母親はそんなアランの顔を見ながら困り果てているようだった。
「俺の装束が乾いたら、一緒に行くか? ちょうど俺も用事があるしな」
サンはそう言いながらアランの頭を撫でる。アランはそんなサンの顔を見上げて満面の笑みを浮かべていた。
「いんですよ。この子のわがままに付き合わなくても。ご迷惑ですから」
「大丈夫ですよ。本当に街に用があるので、丁度いいです」
サンは母親に笑顔でそう言った。ただこの時、母親の表情に何か違和感があったが、それはあまりにも小さい事でサンは気づく事ができなかった。
サンはアランと自分の幼い頃と重ねていたのかもしれない。夢魔によってあんな夢を見せられ、否応無く昔を思い出してしまった。
叶う事ない願いをアランに重ね、それが自分自身の事ではなくても、ほんの少しの間だけ、この親子の姿に自分を投影し、幸せの形を目にしたかったのだろう。