〜緑の屋敷〜
木の葉が風に揺れ囁いている様に聞えていた。
サンとティアは少年の後ろを無言でついて歩いていく。
風が吹くたびに木漏れ日は形を変え、サンとティアに降り注いでいた。
鬱蒼とした緑は迫り来るような圧力を感じさせ、サンとティアの動きを小さくさせているように見えた。
木々に囲まれているというよりは、何かもっと違う何かに囲まれているような、そんな雰囲気をサンは肌で感じていた。
ティアは前に進むごとに色濃くなっていく妖魔の邪悪な気を感じていた。
眼の前に太陽の光が広がっているのが見えて来る。やっとこの押し潰されそうな薄暗い空間から抜け出せる。とサンは思っていた。
眼の前を歩く少年の金髪が太陽の光を受け輝いていた。いきなり太陽の光りの中へと入り込んだサンとティアはその眩しさに顔を顰める。
「ようこそ私の村へ。お久しぶりですねティア、前に見た時はまだ小さかったのに、今ではりっぱな青年ですものね」
光の中に現れた女性が優しい笑みを浮かべそう言った。だが何かが異様だった。
ティアは眼の前の女性の姿に驚いていた。リリーが白い街に来たのは今から十六年前の事だった。にも関わらず、眼の前にいるリリーの母親の姿は、十六年前のあの時と少しも変わらない姿だったのだ。
「貴女はいったい」
ティアの呟きにローズは意味ありげに微笑み、ゆっくりとティアに近付くと、ティアの手を握り引っ張るように歩き出した。
「さあ、私の屋敷にご招待いたしますわ。お連れの方もどうぞ」
ローズはサンに優しく微笑みそう言った。
この笑顔は本物か? いや、何か変だ。ここに近付くにつれて項がざわついていた。嫌な予感が纏わりついてる。サンはローズの笑顔に得体の知れぬ不安を感じていた。そしてこの顔をどこかで見たような気がしていた。
ローズに握られているティアの指先が紫色に変わりつつあった。ティアは自分の手を引いているローズから邪悪な気を感じていた。だがそれはローズ本人からと言うよりは、邪悪な気が纏わりついているようなそんな感じであった。
ティアは手を引くローズにリリーの面影を見ていた。
ローズの屋敷は想像以上に大きな物だった。屋敷全体に蔦が絡み付き、屋敷全体を緑が覆っていた。
緑は人間の心を癒してくれる事の方が多いと思うが、ここの緑はどこか威圧的で、鬱陶しく感じられた。
ローズが大きな扉の前に立つと、扉は軋む音をさせながら開く。扉の左右にはサンと同じ年頃の少年が一人づつ立っていた。
金髪の少年もサンと年頃が一緒だった。ティアはその事にほんの少しひっかかりを感じていた。
屋敷の中はかなり広く、いたる所に植物が置かれていた。大広間の中央には、何十人も座れそうなソファーが置いてあり、ローズはそこへティアを投げ捨てるように座らせる。ティアはソファーの背もたれに軽く頬をぶつけ倒れ込んだ。ローズに握られていた手の指先は冷たくなっていた。
「お前! 何しやがる!」
サンはローズのティアに対する態度に憤りを感じ、声を荒げ叫んだ。
「申し訳ありません。懐かしい顔を見れて嬉しすぎて、ついつい力が入ってしまいました」
ローズは悪びれた様子も無く淡々と言葉を口にすると、口元を歪め笑みを浮かべる。それは冷やかな笑みだった。
「貴方もどうぞそこへ」
ローズの冷たい視線が有無を言わせない雰囲気を漂わせていた。サンは警戒心をむき出しにしながら、ローズを睨みつけティアの横に座る。
「ゆっくりしていってくださね。部屋だけは沢山ありますから。只今お食事の用意をさせますね。ライアン、食事の用意を」
ローズはそう言いながら、今浮かべていた冷やかな笑みとは正反対の温かい笑みを浮かべた。それは寒気を感じるほどの変貌振りだった。
ライアンと呼ばれた金髪の少年はローズを一瞬見つめる。その瞳には微かだったが憎しみのようなものが含まれているように見えた。少年は一礼すると厨房へと消えていく。
ローズは長い黒髪を揺らしながら妖艶な素振りで、サンとティアの向かい側に座ると、ティアを見つめた。
「ティア、私の娘は元気にしていますか?」
ローズは懐かしそうに微笑むとそう聞いた。
「ええ」
ティアはローズの様子を伺いながら、言葉短く答えた。
「あれからもう十六年も経つのですね。ティア、憶えていますか? 私がリリーを連れて行った時の事」
「もちろんです」
「そう、憶えていてくれたのですね。嬉しいですよ」
ローズはそう言うと、装束に隠れていた左手を出し、その手を見つめていた。
サンはその手を見て驚いた。手首から先が紫色に変色していたのだった。
「此処は貴方の村だと言いましたが、すでに緑の街に入っていると思うのですが、どういう事です?」
ティアの質問にローズは紫色の手を眺めながら、一瞬、何かひっかかりを感じたような表情を見せた。
「緑の街はなくなりましたよ。あそこは今やゴーストタウンです」
ローズはそう言うと、目を伏せ鼻で笑う。言葉を発したと同時に冷たい風が吹きぬけたように感じた。
サンはローズの言葉に肩を落とした。久しぶりに温かい布団とまともな食事にありつけると思っていたのが、期待を裏切られショックだったのだ。
「ですから、遠慮せずにここに滞在なさってください」
ローズはそう言うとサンを見つめて温かい笑みを浮かべていた。だがサンはその笑顔が作られた物だという事に気付いていた。
こんな嫌な感じが纏わりつく屋敷になんか、長時間いたくない。眠る時くらいゆっくりしたい……しかしこの女、何処で見たんだ? 思い出せない。サンは自分の記憶の曖昧さに苛立っていた。
ライアンが食事を運んできて、テーブルの上に並べ始める。他にも二人の少年が同じように食事を運んできた。やはりサンと同じ年頃の少年であった。
ティアは思っていた。サンと同じ年頃の少年ばかりを傍に置くのには、何か理由があるはず……いったいそれは何なのだろうか。
その時だった。ライアンが運んできた食事を手を滑らせ、床に落としてしまったのだ。
ローズの表情が見る見る怒りに満ち、その怒りは抑えられない所まで膨れ上がったのか、いきなり立ち上がると手を振り上げた。
咄嗟にサンはローズの手を掴み上げる。
「おい、こんな事ぐらいで手を上げるなんて」
サンはそう言って、ローズを睨み付けた。ローズはなぜかサンでは無く、サンの姿の向こう側にいるティアを見ていた。ティアは悲しく揺れる瞳でローズを無言で見つめていた。
「し、しつけは必要です」
このローズの言葉もサンに言ったのでなく、ティアに向けられた言葉のように感じた。
「時には叩く事も必要だろうが、わざとにやったわけじゃねえだから、許してやれよ」
サンの言葉にローズは悔しそうに唇を噛み締め、サンに握られていた手を振り払った。
ローズは未だ怒りがおさまらないのか、一瞬鋭い目線をライアンに向ける。ライアンはその視線に怯え体が硬直してしまったように見えた。
サンはそれに気付き、間に割って入る。
「……さすが、ティアのお連れの方ですね。正しい事をおっしゃる。感激いたしました。どうも私も大人気なくて申し訳ありません」
ローズはそう言うと、サンとティアに背中を向けた。
「私は少し疲れましたので、自室で休ませていただきます。後のお世話はそこにいるライアンにお申し付け下さい。頼みましたよ。ライアン」
「はい」
ローズはそう言うと、奥にある薄暗い廊下へと姿を消していく。ライアンは弱々しく返事をし、サンを見つめて笑みを浮かべる。だがその笑みは無理矢理作っているようだった。
森で会った時のライアンとは少し印象が違って見えていた。
サンはそんなライアンに向けて親指を立ててウィンクをしてニッコリと笑った。
「ライアンだったけ? あんたもあの女の事よく思ってないみたいだけど。なぜ言いなりになっている?」
サンの質問にライアンは目を伏せ口を固く噤んだ。そんな様子を見てサンは軽く鼻で笑う。
「まあいい、言いたく無ければ聞かねえ。ところでこの料理、毒とか入ってねえよな?」
「大丈夫ですよ。安心してください」
ライアンははにかんだ笑顔を浮かべていた。その笑顔に嘘は無さそうだった。
サンは大きな溜息をつき、ソファーにどっかりと腰を下ろすと、ティアの肩に手を回し思い切り自分の方に引き寄せる。
「ティア、俺にもわかるように説明しろ。あの女、手を掴んでるのが俺にも関わらず、お前を見ていた。なぜだ?」
サンはティアの顔を覗き込むと翡翠色の瞳を、奥の方まで突き抜けるような視線で見つめる。
ティアは翡翠色の瞳を微かに揺らすと、ゆっくりと口を開いた。
「言いたくないので、聞かないで欲しいのですけど」
「それは駄目だ。こうやって俺まで巻き沿いになってるんだ。俺だけ何も知らないのは気に入らない」
「ライアンには言いたくなければ聞かないと……」
ティアはそこまで言って、言うのを止めた。サンの刺さるような視線が痛かったからだ。
ティアは大きく溜息をつくと、ゆっくりと口を開き始めた。
「さっき、サンがあの女性の手を掴んだように、私も昔同じように手を掴んだ事があります……そして掴んだ瞬間手が燃えあがってしまった」
ティアは目を伏せ低めの優しい声で淡々と話す。サンはティアの言葉に衝撃を受けた。
「手が燃えあがってしまった」ティアのこの言葉に、サンはローズの左手の手首から先を思い出す。紫色に変色していた。まさか、それがティアのせいだと言うのか?
サンは心の動揺を必死に隠すように、膝の上で手を力一杯握り締めていた。
ティアはそんなサンの姿に目を伏せ、悲しく微笑んでいた。