緑の街 〜動揺〜
少し水分を帯びた爽やかな風が心地よく吹いていた。
木々に覆われた緑の空間、合間をぬってキラキラと差し込む木漏れ日が美しかった。
大きな樹木の幹を背にティアは眠りに落ちていた。
微かに川の流れる音が聞えていた。その音はティアの耳元をかすめて行く。
ティアは川の音を不快に感じたのか眉間にしわを寄せ、ゆっくりと目を開ける。耳には川のせせらぎの音が残っていた。
「……夢……ではないみたいですね」
ティアは川の音を聞き、夢と勘違いしたのかそう呟くと、漆黒の髪の毛を掻き揚げるように頭を抱え俯き大きく溜息をついた。
ティアは物心ついた頃から、川に呑み込まれる夢をよく見ていた。夢にうなされ起きるといつもそこには全てを埋め尽くすような闇が広がる夜だった。
その恐怖がまだ根強くティアの心に残っていたのだった。
「……サン?」
眠りに落ちる前まで隣にいたはずのサンの姿が見えなかった。ティアは周りを見渡しサンの姿を探すがどこにもいなかった。ティアは立ち上がり耳を済ませる。
微かに川の音とは別に、水に何かが入り込むような音が聞えた。ティアは自分の勘を信じて足を進める。草が生い茂る緑の中をティアは両手で分けながら入って行くと、いきなり視界が開け眩しい空間が広がっていた。そこには美しい水を湛えた泉が存在していた。太陽の光を受け水面が輝いていた。
泉の中に人影を見つけ、ティアはそのしなやか筋肉が隆起する後ろ姿に驚き咄嗟に木の陰に隠れた。ティアには珍しくそこに自分がいる事を悟られるような、茂みを揺らす音をさせてしまっていた。動揺を隠せなかった。
「誰だ!?」
そう緊迫した声で叫びながら赤い髪を揺らしながら、泉の中に身を隠した人影はサンだった。サンは肌を露に一糸纏わぬ姿で水浴びをしていたのだった。
「……私です」
ティアは木の陰からそう言った。サンの一糸纏わぬ姿を見た時、咄嗟に身を隠してしまった自分をティアは不思議に思っていた。
「ティアか……今上がるからちょっと待ってろ。そこから出てくるなよ」
「はい」
ティアはサンにそう釘を刺されなくても出て行くつもりはなかった。見てはいけないと体がそう反応してしまったのだから。
白い街でのリリーが覚醒した時もサンの装束が破れ胸のふくらみが露になった時も、その事にこんな動揺を感じはしなかった。だが今は違う。ティアは静かに胸に手をあて、自分のそんな小さな変化に滑稽さを感じ微かに微笑んだ。
「もういいぞ」
サンは紺色の装束に身を包み、少し濡れた赤い髪からは雫が落ちていた。ティアはゆっくりと木の陰から姿を現した。心なしか頬にほんのりと朱が差しているように見えた。
「水浴びですか?」
「ああ、こんな綺麗な泉にぶち当たるのは久しぶりだからな。黙ってきて悪かったな。お前があまりにも気持ち良さそうに寝てるから、起こすのは悪いと思ったんだ」
サンはそう言いながら髪の毛の水分を手で払う。ティアは泉に近付き水面を覗き込んだ。
底の石の色までもが鮮やかに透けて見え、水面にはティアの翡翠色の瞳と漆黒の髪の毛が映っていた。
ティアの髪の毛がハラリと水面に落ち、波紋を静かに広げていく。その時だった。ティアの見ていた水底から浮かび上がってくるように手が伸びてきて、ティアの髪の毛を鷲掴みにするとそのまま水の中へと引っ張り込んでいく。
ティアは突然の事に身構える事もできず、そのまま水の中へと落ちていった。
水飛沫が上がる音にサンは驚く。すぐさま泉の方を振り返るとティアが泉の浅瀬で膝を付き水浸しになっていた。漆黒の髪の毛が重そうに体に張り付いていた。
「ティア?……お前、何やってるんだ?」
サンの問いに、ティアは答える事なく、ただ自分の髪の毛を触りながら怪訝そうに何かを考えていた。
「どうした?」
「いえ、何でもありません……ただちょっと水浴びを……」
ティアはそう言い、ゆっくり立ち上がると、泉の向こう側にある鬱蒼とした森に視線を向けた。森の中から微かに笑い声を聞いたような気がしていた。
「お前、装束着たまま水浴びかよ」
サンはティアの様子に何か違和感を感じたが、それを悟られぬようにそう聞いた。
「水浴びと洗濯と一石二鳥です」
サンの言葉にティアはそう言うと、サンの方を振り返りいつもの微笑を浮かべた。
ティアは目に見えない不安を感じていた。すぐに消えてしまったが、目の前に現れた手は確かに本物だった。そして髪の毛を掴まれた感触も残っている。それに笑い声……いったい何なのだろうか。
緑の街には確かあの女がいる。それが関係しているのだろうか。
ティアはそんな事を考えながら、泉から上がりサンの方へと歩いて行く。
「ティア、着替えたら出発だぞ。もう緑の街に入っているんだ、今日はまともな食事にありつけそうだな」
サンはティアに感じた違和感の正体を知りたいと思ったが、ティアが何も言わないのであれば聞かずにいようと思い、朗らかな笑みを浮かべてそう言うと、ティアの荷物から装束を取りティアに投げつける。今度はサンが木の陰に隠れ、ティアが着替えるのを待っていた。
ティアはサンから受け取った、水色の装束に着替えると。木の陰にいるサンの顔を覗き込んだ。
「さあ、行きましょうか」
「ああ、行こう。今日はやっと布団で寝れるな」
サンとティアはお互いに笑い合うと元いた道まで戻っていった。
細かい枝が落ちた道を歩いていくと、足が枝を踏み、折れる音を響かせていた。
「ここの空気は清々しくて気持ちがいいですね。これがこの世界の本来の姿なのかもしれません。でも今はこんなに緑が豊富なのはこの街くらいなものなのでしょうね」
ティアは少し影の差す瞳でそう言い、悲しく微笑んだ。
「だろうな。この街に入るまでは殆どが荒野と砂漠だったからな。だが、俺はこういう森は早く抜けたいね」
サンは退魔の剣を肩に担ぐようにしてそう言い、ティアの前を歩いて行く。
「なぜです?」
「こう木々が多いと、視界は悪いし、剣を振るうのには邪魔くさいからな。いざって時に動きずらくなる」
サンのその言葉に、ティアはサンらしいと思いながら、サンの背中を見つめて歩いていた。
風が吹く。木の葉が舞いサンとティアの眼の前を通り過ぎて行く。
何かが来る! サンもティアも何かの気配を感じ、サンは柄に手を掻け、ティアは手を握り締め状態を低く身構えた。
茂みを揺らし左側の緑の中から、転がるように姿を現したのはサンと同じ年くらいの少年だった。
天然パーマなのか、ちぢれた金色の前髪の向こう側に、突き刺すような視線で睨みつける瞳が輝いていた。
少年は宣戦布告とも取れるような威圧的な雰囲気で頭を下げた。
サンもティアもその頭を下げた事に驚いた。眼の前の少年を包んでいる雰囲気からは予想もつかなかった行動であった。
「白い街のティア様、よくぞこの街を訪問して下さいました。白い街神使になられましたリリー様の母上である我等が長、ローズ様がお待ちしています。お連れの方もご一緒にどうぞ」
少年はティアに鋭い目線を向けると淡々と言葉を紡ぐ。それは何の感情も感じさせず、歓迎してるといった雰囲気ではなかった。
ティアは自分の中の不安が的中してしまった事に苦笑し、少年の言葉に疑問を抱いた。
リリーの母親が長をしている。それは初耳の言葉であった。
「どういう事だ?」
サンは不思議そうにティアの顔を見つめた。ティアはサンの顔を見つめ切ない悲しみを帯びた表情を浮かべていた。
「ここはリリーの故郷です」
ティアのその言葉にサンは理解が出来なかった。言葉の意味はわかるが、目の前の少年の刺す様な視線と、リリーの故郷である事とのつながりがわからず困惑していた。
「先程の余興は気に入って頂けましたか?」
少年は意味ありげに微笑を浮かべると、嫌味を込めた口調でそう言った。ティアはその言葉に先程の泉の一件を思い出し、目を伏せ鼻で笑った。
「ティア、どうするんだ?」
「ここで戦っても無駄に体力を使うだけでしょう」
サンの問いにティアはひねくれた様な物言いで言葉を口にし、サンに向けて意味ありげに微笑んだ。
眼の前の少年の臨戦態勢は気にはなったが、ティアの意味ありげな笑みに、何か事情があるのだろうとサンはとりあえず納得して頷いた。
「さすが、物わかりがいいですね。では私についてきて下さい」
少年はそう言うとサンとティアに背中を向け歩き出した。
サンは炎のような髪の毛を風に揺らし、口元を歪ませニヤリと笑う。こういう時のサンは少女である事をまったく感じさせない雰囲気を持っている。
今から来るであろう危機に対する、緊張感に胸が高鳴る自分がいる事に、サンは気付き鼻で笑っていた。
ティアはリリーの母親であるローズに、会わずに街を通過できたらどんなに良かったか、と思っていた。リリーが初めて白い街に来た時に、無意識的にリリーの母親の思念を悟ってしまった事を今更ながら後悔していた。
サンとティアは少年の後姿を見ながら歩き出した。
三人の姿は深い緑の中へと消えていった。