白い街 〜出会い〜
纏わりつくような真っ白い霧は、旅人を惑わせ、妖魔を排除する。
これが白い街と言われる所以だろう。
水分を含んだしっとりとしたその感触を全身に感じながら、一人の旅人が街に入り込んでいた。
目の前に広がる霧に臆する事無く、歩みを進めるその姿は凛々しく、精悍な雰囲気を漂わせていた。
「まったく、ここの神使の結界は鬱陶しいなあ。それに力も弱い、これじゃあ妖魔が容易に入り込んできそうだ」
旅人はそう口にしながら、目を擦りながら歩みを進める。
神使とは、妖魔の存在から街を守るために、個々の街にかならず一人は存在する、神がかり的な力を持つ人間の事である。
神の使いとして認められた存在であった。
この濃い霧のせいで旅人の姿をうかがい知る事はできないが、声は少年か少女のような幼さの残る、凛々しい雰囲気とは程遠い響きを持っていた。
何の躊躇も感じさせないその歩みは、次第に速さを増していく。それは心が急いているかのようだった。
刹那、足元に違和感を感じ躓いて転びそうになるのを、倒れる寸前で体を前転させるように、衝撃を逃がしながら立ち上がる。それはまるで野生動物の俊敏さを想像させた。霧が揺れ微かにできた合間から覗く旅人の姿は、真っ赤な炎のような髪の毛に浅黒い肌、茶色い瞳にまだ幼さが微かに残る少年であった。
少年は起き上がると同時に、こんな濃い霧の中でもひときわ光を放つ剣を腰から抜くと、自分の足元を襲った異物へと刃先を向けた。幼さの残る顔からは想像がつかぬほどの鋭い眼光でその異物を凝視する。だが、その異物は動きもせず、真っ白い空間に薄っすらと影を漂わせているだけだった。
少年は足音をさせないように、その漂う影へと近付いて行く。
近付くにつれ、影の正体が人間らしい事がわかった。着ている装束が白っぽいせいで霧との見分けがつき難い。
少年は地面に横倒れになったその人間らしき物を剣先で軽く突っついてみる。だがそれは何の反応もせず動かなかった。
「こいつ……生成り色の装束……神使なのか?」
少年は疑問の言葉と共に、倒れている体の下に足を入れると優しく蹴り上げ、仰向けにさせた。
霧の白さに唯一目立つ漆黒の髪の毛に、象牙色の肌、不思議な事に睫毛だけは黄金色だった。だがそのアンバランスさもなぜか美しいと思ってしまうような、この世の者とは思えないほどの研ぎ澄まされた端整な顔立ちをしていた。
「おい……おい!」
少年は横腹の辺りを軽く蹴りながらそう言う。すると微かに呻き声を上げ、その女とも男とも言えぬ様な美しい人間らしき者は静かに目を開ける。
少年はその瞳の色に驚いた。奥深い翡翠色に輝いていたからだ。
翡翠色の瞳、俗世間には存在しない色。その色は神の象徴であり、神使の中でも翡翠色の瞳を持つ者は数少なく、特異な存在だった。
こんなヤツがこんな所に倒れてるなんて、どういう事だ?
少年は心の中で密かにそう思いながらも、その瞳の色に危険のない証を見出し、安心してしゃがみ込むと倒れているその者の顔を覗き込んだ。
倒れていた者は、いきなり覗き込んで来たその顔に驚き、咄嗟に尻を引きずるように後ずさる。翡翠色の瞳が微かに震えているように見えた。
その姿は神使の力の強さとはかけ離れた、情けないものだった。
「お前、本当に神使なのか?」
少年はそう言いながら、その神使らしき者に尋ねる。神使と言う言葉にピクリと反応したかと思うと、その者の瞳の震えが止まり、少年を真っ直ぐに見つめる。
「あなたは、何方です?」
少し低めの優しく耳障りのいい声が霧を揺らしながら響く。
「俺は、妖魔退治専門の賞金稼ぎさ。あんたは?」
少年のその声に、神使らしき者は、その美しい翡翠色の瞳を伏せると、悲しい雰囲気を漂わせながら口元を微かに歪め微笑んだ。
「私は神使なんかじゃありません……私は……私は……」
何かを言おうとして、その者はそのまま地面に崩れるように倒れてしまった。その様子に少年は驚き、駆け寄ると抱き上げ体を揺する。だが固く閉じられた瞳は開く事はなかった。
抱き上げたその者の体から熱が伝わって来る。少年はその者の額に手を当てた。
「熱があるのか……まったく……これから仕事だってのに、とんだ足止めだ」
そう言いながらも、少年はその自分の腕の中に身を委ねたその者に対して、棄ててはいけない雰囲気を感じていた。
神使じゃない……その言葉に引っかかりは感じていたが、少年にとって危険や如何わしい物はごく当たり前で、その中に身を置いてる緊張感が少年にとっての心地よさでもあった。
少年はゆっくりと顔を上げ視線を前にやる。霧は相変わらず色濃く、行く手を阻んでいる。そんな状況に軽く溜息をつくと少年は微笑んだ。それは少女のような可愛らしい雰囲気を漂わせていた。
「しゃあねえな……これも何かの縁だ。面倒みてやる」
心の内で、助けたあかつきにはたんまりと礼金をもらう事にしよう……そう考えている事など想像もつかない愛くるしい茶目っ気のある表情を浮かべていた。
真っ白い霧の中をどれくらい歩いただろうか。少年はあの翡翠色の瞳の持ち主を引きずるように背負い歩いていた。この小さな体のどこにそんな力が隠されているのだろうか。確かに鍛え抜かれたしなやか筋肉を持っているようではあったが、お世辞にも力強い体格を持っているとは言えなかった。
肌がしっとりと濡れる中、微かに風が吹いるのを感じていた。
「もう少しで結界の中だな」
少年はそう呟き凛とした瞳で、少し足早に歩みを進める。
今まで風の音すら感じなかった中を、前方から微かに何者かが走ってくるような足音が聞えてきた。おそらく人間のものではあると少年は思ったが、念のため後ろに背負っていた者を地面におろし寝かせると、前に向き直って腰の剣に手を掛け身構えた。
霧の向こうの足音へと鋭い視線を向ける。
眼の前の真っ白い空間からいきなり飛び出してきたのは、少年よりもかなり背の小さい少女だった。
少女は霧で眼の前が見えなかったのか、少年に思い切りぶつかり、その場に尻餅を付いて転ぶ。少年はそんな少女に手を差し伸べた。
ゆっくりと少女は顔を上げた、刹那、少年は息を呑み、差し伸べた手を引っ込めそうになったのを必死に堪えた。少女の纏っている空気に邪悪なものは感じなかった。
少年は少女を両腕で抱きかかえるように立たせると、あらためて少女の顔を見つめた。
しゃがみ込んだ少年の眼の前には少女の顔があった。
少女には目が無かったのだ。
通常の目の位置には普通の皮膚があるだけで、目の痕跡も無かった。
顔には赤黒いアザが無数に存在しており、見たものは当然のごとくこの少女から遠ざかるであろう異様な顔であった。
だが不思議な事に、少女の纏う空気には穏やかな温かさが含まれていた。
少年はそれを感じ取り、目を背ける事無く少女と向かい合ったのだった。