〜接吻〜
マリの家の扉が軋む音をさせて開く。そこには一人の男が立っていた。
がっちりとした筋肉質の体格に、黒く硬そうな短い髪、目は二重で大きく綺麗な青い色をしていた。生成り色の装束を身につけている。
「マーラ、いつになったら帰ってくるんだ? こっちの仕事だってあるんだぞ」
そう言って男はマリの家の中へとズカズカ入ってくる。
「クラマ、来た所悪いのだけど、この子をベッドの上まで運んでくれないかしら」
マリはその男をクラマと呼び、親しげな笑みを浮かべるとそう言った。
クラマは床に横たわっているティアに視線を向けると、胸に刻まれた刻印を目にする。
「まさか……カランの気配が消えたのはコイツ等の仕業なのか?」
ティアの刻印を目にして、クラマがなぜそう言葉を口にしたのか、サンは皆目見当が付かなかったが、マリは優しく微笑んで頷いていた。
「この人は俺が使えている神使さ、見た目はガラが悪いけれど、神使としてはかなり優秀なんだぜ」
マーラの説明を聞き、サンはマリのその優しげな笑顔も、この男の図々しさにも納得ができた。
これはマヤ様の紋章……なぜこの子が……
クラマは心の中でそう思ったが、今この場でそれを口にすると、この青年の傍らにいる少年に詳細を説明しなければならなくなる。それは避けた方がいいだろう。
クラマはそう判断して、口を噤むと、ティアを抱きかかえて二階へと運ぶ。
サン、ササラ、マーラの三人もそれに続いて二階へと上がっていった。
「おい、お前、あそこの箪笥から適当に装束を持ってきて、着替えさせてやれ」
クラマはサンにそう言う。だがサンにはティアを着替えさせる事は無理だった。ティアの装束を着替えさえるという事は、ティアを裸にするという事である。
見かけは男でも中身は女である。さすがのサンにもそれは出来なかった。
「クラマ様は鈍感だな。それは無理ってものよ。サンはれっきとした女の子だよ」
ササラにそう言われて、クラマは眼の前の少年、否、少女をまじまじを見つめていた。
「そ、それは失礼した。それじゃあササラと一緒に外に出ていてくれ」
クラマにそう言われて、サンとササラは廊下に出て待っていた。
サンは深く溜息をつく。ティアの倒れた姿を見た時、胸が激しい痛みを感じた。
それは不安や恐怖といった感情に似ている。どうしてそう思うのか、自分の記憶を辿る。だが過去を遡るとかならず壁にぶつかり、それよりも過去に辿りつけなくなる。
その壁の向こうには思い出したくない記憶があった。凄まじい不安や恐怖を無理矢理閉じ込め、女である事を捨てた自分がそこには存在していた。
サンはその壁の向こう側を見ないようにして生きてきたのだった。
ティア……ティア……誰かの呼ぶ声がする。優しく穏やかなその声はティアにとって唯一、安らぎを与えてくれる空間でもあった。
ティアは広い草原に目を閉じ仰向けで横になっていた。雨が降ってくる。その雨は生臭かった。頬に落ちた雨を手で拭い、手を見るとそれは血だった。ティアは慌てて体を起こそうとするが、身動きが取れなかった。
いつの間にか自分自身が血の川に浮かび、ズブズブとティアの体を呑み込んで行く。
ティアは逃れようともがくが、体は余計に沈んでいき、あっと言う間にティアは頭まで沈んでしまう。
たすけて! ティアは心の中で思い切り叫んだ。その時、温かい手がティアの手を握り締め、凄い力でティアを血の川から引き上げたのだった。
「……す…けて!」
ティアは手を伸ばし勢い良く起き上がる。その反動で傍らに寝ていたサンを吹っ飛ばしてしまった。
「……夢か……しばらく見てなかった、あの夢」
ティアはそう呟き頭を押さえる。なんとなく頭には重い痛みが残っていた。
「ったく、いてえな。」
「すみません」
ティアはサンを吹っ飛ばしてしまった事に気付き、いつものように優しい笑みを浮かべると謝った。
サンは立ち上がると、ティアの瞳を覗き込むように見つめる。瞳の色は翡翠色だった。
「夢を見ていたのか? お前、三日間も眠ってたんだぞ。もう大丈夫なのか?」
「心配させてしまったようですね。もう大丈夫ですよ」
サンはそう会話しながらも、ティアの胸に現れた刻印の事が気になっていた。だがそれを口にする事はサンには出来なかった。
自分自身の中にも触れられたくない事があるように、ティアにも踏み込んでほしくない領域があると思ったからである。
本人からその話が出るまで黙っていようと思っていた。
「サン、どうかしましたか? 疲れているようですが、大丈夫ですか?」
ティアはそう言い、サンの頬に手を伸ばし、頬に優しく触れる。
サンは自分を覗き込んできた翡翠色の瞳に、一気に心臓が高鳴るのを感じて、立ち上がりティアから離れた。
気まずい空気が流れていた。否、そう思っていたのはサンだけであって、ティアはそんなサンを不思議そうな顔で見つめていた。
ティアが寝ていた部屋の扉が軋み音と共に開く。
「ああ、ティアが目を覚ましたんだな!」
そう言って入ってきたのはマーラだった。
マーラは入ってくるなり、ティアの傍に近づき、クンクンとティアの匂いを嗅ぐと、いきなりティアに抱きついた。
さすがのティアもその予想もしていなかったマーラの行動に驚いていた。
「ど、どうしたんです?」
「俺、あんたの事気に入っちゃった。この街にずっといればいいのに」
マーラはその光りに輝くと赤く見える黒い瞳で、ティアを見つめてそう言った。
「マーラは貴方の事をかなり気に入っているようですね。この子がそんなに他の人になつくなんて珍しい事なのですよ。よければこの街にもう少し滞在していって下さい」
マリが部屋に入って来て、ゆったりとした柔らかい口調でそう言った。
その後ろではササラが、クスクスと愉快そうに笑っていた。
「この街の神使様ですね。このたびはご面倒をおかけして申し訳ありません。なんとお礼を申し上げて言いか」
ティアは金色の睫毛を伏せながら頭を下げた。
「お礼等と、それはこちらのセリフです。貴方が命の灯から魂を本来あるべき場所に戻してくれたのですよね? なんとお礼を申し上げていいか」
「いいえ、あれは私の力だけではありません。カランの意思も助けてくれました……あの方ももう少し周りに恵まれていれば、ちがう人生を歩めたかもしれないのに。そういえばユリカさんはどうしました?」
ティアはそう言うと、サンの方を見る。サンは横に首を振っていた。
「ユリカさんみたいな方が、もっと昔に傍にいたら違ったかもしれませんね」
マリはそう言ったティアの横顔に悲しい影を見た。どこか自分と似ている部分をカランの中に見ていたのかもしれない。とマリは思っていた。
「ティアさん、ユリカの事は心配しないで下さい。あの後、クラマというもう一人の神使が探し出して自分の下で働かせるようにしましたから」
「え!? じゃあ俺は何処に行けばいいんだ? このティアをいじめたヤツと一緒に仕事なんかしたくない」
マーラは口を尖らせてそう文句を言っていた。
「貴方は、こちらで引き受ける事にしました。そろそろ神使になる準備を始めないとね」
マリの言葉にマーラはキラキラとした瞳で、後ろのササラの顔を見つめる。ササラも笑顔で頷いていた。
「ねえねえ、もう少しこの街にいなよ」
マーラのその言葉に、ティアはサンを見つめる。
「少しなら俺はかまわないけど」
サンがそう肩をすくめ鼻で笑いながら言った。
「だそうですよ」
ティアは笑顔を浮かべ、マーラを見たその時だった。いきなりティアの唇にマーラがキスをしてきたのだった。
マーラは悪びれた様子も無く、ニコニコと笑っていた。ティアは何が起こったのかわからない様子で、硬直していた。ティアにとって初めてのキスだった。
「マ、マーラ、何をしているの!?」
ササラが凄い勢いで走ってきて、マーラをティアから引き離す。
「ご、ごめんなさい」
ササラは大きな声でそう謝ると、マーラを引きずるようにして部屋から出て行った。階段を下りた音がしたと思った矢先、下から大きな声で怒鳴る声が聞こえていた。
マリはティアのその唖然とした姿と、ササラの怒鳴り声に苦笑していた。
「ティ、ティア、大丈夫か?」
ティアはマーラにキスをされた唇を自分の指で触る。翡翠色の瞳は揺れ、一筋涙が頬を伝い零れ落ちた。
「おいおい、そんな泣く事でもないだろう? そりゃあ相手が男だったのは不運だったと思うけど」
サンは皮肉を込めて、半分茶化すようにそう言った。
「……違うんです。こんなに温かく迎いいれてくれて、しかもマーラは私にこの街にいて欲しいと言ってくれた……うれ……しい……」
その後は泣き声で言葉にならなかった。
まったくコイツの感覚は少しずれてるな。そんな事を思いながらサンはティアの頭を優しく撫でる。
マリは眼の前の光景を眩しそうに見つめていた。
マリにはティアとサンの二人を包むように神々しい光が見えていた
何という温かい光なのでしょう……マリはそう思いながら優しい微笑を湛えていた。