ダイバー
壁や天井のあちこちに黒い染みが跳んだ部屋だった。床はむき出しのコンクリートだったが、黒とも焦げ茶ともつかぬ汚れが積み重なり、もとの色はわからなくなっていた。
床に置かれた火鉢では赤々と炭が燃え、上に置かれた古びたヤカンからは蒸気があがっている。
部屋に調度はなく粗末な机と椅子があるだけの部屋は治安局の取り調べ室にも似ていたが、天井の太い梁からは自動車修理工場にあるようなチェーンブロックがぶら下がっていた。
更にはコンクリートの床には排水用の溝が掘られていた。溝も黒く汚れ、流し残りか何本か髪の毛らしきものも見えた。
その部屋で座らせられている男が一人。年の頃は三十手前、精悍な顔にどこか不安さを漂わせている。それもその筈、彼の両手は机にボルトで固定された錆びの浮いた手枷に捕らえられ、足も分厚い足枷で椅子に固定されている。椅子も机もコンクリートに金具で固定されているため、移動はできない。
文字通り、彼は捕らえられていた。
「御子神信也。治安維持法違反で逮捕、で間違いはないかな?」
異様な部屋に似合わない間延びした声で問うたのは、髪が長い以外に驚くほど特徴のない女だった。髪型を変えただけでもう誰か分からなくなる、そんな女だった。
治安局の下級治安官の野暮ったいカーキ色の制服を着た女はガリ版の藁半紙をめくる。
「君は革命主義者と言うことでよいのかな?」
男は吐き捨てる。
「権力の犬め!」
「まったくその通りだ。私は権力の犬で唐橋と言う。分かっていると思うが拷問官をやっている。権力のお陰でライフワークを仕事にできる。ありがたいことだ」
唐沢は平然とそう答える。そこの皮肉の色はない。感情が動いた様子もない。
「これから君を拷問して革命の仲間のことや秘密のアジト資金源などを尋問する訳だが、それについては答えなくていい」
御子神の眉が不審気にひそめられる。高圧的に出る訳でもなく、犬と罵っても反応がない目の前の女を計りかねていた。おまけに何も歌わなくていいと言う。
一つ、有り得ない可能性が脳裏に浮かんだ。
「同士、なのか?」
口にした御子神自身信じていない様子だった。
唐橋は首を傾げた。
「君はなにか聞き違えたのかな? なにも答えなくていいが、拷問はすると言っている。それと革命とか理想の社会だとかに興味はないよ」
「軍部が暴走して、今に美国と戦争になるぞ」
「そうだねえ。沢山、人が死ぬだろうねえ」
今日の天気は曇りだねえ、と変わりない緊迫感のない声と表情だった。
「だったらなぜ? そこまで分かっているならなぜ立ち上がらない? どうして腐った政府を倒そうとしない?」
逮捕されてから貯まっていたものが吹き出したのか、御子神が熱く雄弁に語り始めた。今の祥和政府になにか含むものがある者が聞けば、そのまま革命派に転向しそうな見事な演説だった。
唐橋は黙って、べこべこに凹んだヤカンから湯飲みに中身を注ぐ。長い時間煮出されたおかげで香りは飛んでしまって、死ぬほど苦いだけのお茶だった。
ずっ、ずっ、と啜りながら唐橋は好きに語らせておいた。
両切りの安い煙草をくわえて、火鉢の側に屈んで燃える炭で火をつける。
「おい、聞いているのか?」
「聞いているとも。革命はどうでもいいけど、君の革命に対する熱い想いは、たぎる理想はよくわかった」
「なら」
それを遮って、唐橋は語り始める。
「子どもの頃から耶蘇が好きだった。耶蘇の人たちが語る殉教が好きだった。理想に殉じて死んでいくさまは、なるほど人は素晴らしい生き物なのだと胸が熱くなった。だから君も、それだけの理想があるならば、理想が、仲間が大事ならば是非とも意思の力で苦痛などはね除け、人は素晴らしいのだ、ただの生きている糞袋ではなくて、生きる価値がある生き物だと、最後まで理想に殉じて神の領域まで駆け上がれるのだということを見せて欲しい」
御子神が拘束されていることを忘れて、椅子ごと後じさろうとした。皮膚に鉄の枷が食い込んだだけだった。拘束された状態で一番遭遇してはいけない生き物がそこには、居た。
煙草をふかし、まずそうにお茶を啜っている。
「君には期待している」
御子神はグロテスクな人間大の虫を見る眼で、唐橋を見つめていた。
指にネジがついたメリケンサック状の器具が嵌められた。ネジを締めると四つの鉄の輪が指を締め上げる仕掛けで、限界まで締めれば指を砕くこともできる。
「まずは五分耐えろ」
小さな砂時計をひっくり返して、唐橋がネジを締めていく。
今まで尋問した者は訊いてもいないのに、ぺらぺらと仲間のことを喋りはじめてしまい殉教まで、人の崇高さを見せつけるところまで行った者はいなかった。
唐橋は今度はそうじゃないことを期待していた。
御子神の眉が苦痛に歪む。しかし唇を噛み締めて、声はあげない。
骨が砕ける前に締め上げは止まった。
指は神経が集中している敏感な器官だ。一気に砕いてしまってはつまらない。
二人とも無言のまま硝子のなかで砂が落ちていく。
御子神はそれを見つめ、唐橋はそんな御子神を楽しげに眺めている。
たった五分。
しかし御子神にとっては永遠に近い時間だった。
砂が落ちきり、唐橋は拷問具のネジを緩めていった。
「はあっ」
御子神が大きく息をつく。まだ痛みが残る指を恐る恐る曲げたり伸ばしたりして、動くことを確認している。
そのせいで彼は唐橋が金槌と三寸釘を用意していることに気づかなかった。
鈍い音がした。
「おっ、おっっ」
最初なにが起きたかわからなかった。
釘が手の甲を貫通して机に突き刺さっている。ひどく現実感がない光景だった。
痛みは遅れてやってきた。
御子神は歯を食い縛って、なんとか悲鳴はこらえた。しかし、背中にじっとりと嫌な汗が滲んでくるのを感じる。
唐橋は金槌で手の甲ごと潰す勢いで釘を打ち込んでいく。
更にもう片方の甲にも釘を打ち込んで机に縫い付けていった。
「拘束と苦痛への直感的な理解だ」
御子神には何故、唐橋が得意気なのか理解できない。
「どうだ、なかなか上手く刺さっただろう。柔らかいものと固いもの、肉と木と、まとめてまっすぐに釘を打つのはなかなか難しいんだ」
追加で手に釘を打ちこむ。それは斜めに手を貫通していた。
「な、油断するとこんな風に斜めになってしまう。護送される途中に鳥風亭は見たかな? 近くの焼鳥屋なんだが、これが味はともかく串が綺麗に通ってるんだ」
唐橋が得意気に語るうちに、机に赤い水溜まりが滲んでいく。
「その主人に串の打ち方を教わったんだよ。最初はなにをバカなことをと相手にされなかったが、私が治安局勤めだと知れるとそれはもう親切に教えてくれたよ。そうだ、せっかくだし串打ちも見せてやろう」
鈍い音がして机の上に缶が置かれた。
十銭銅貨で嵌め込み式の蓋を開けると、灯油の臭いが鼻をつく。
無数の竹串が灯油に浸けられていた。
ボロ布を広げそこに竹串が並べなられていく。
平行に等間隔に10本。
串から染み出た灯油がボロ布に滲みていく。
「いいや、やめないやめる訳ないだろう」
唐橋は喜色を浮かべて、竹串をつまみ上げる。
「どれにしようかな、かみさまのいうとおり」
竹串の先端が爪をリズミカルに突いていく。御子神は指を握り込もうとしたが、甲に釘が打ち込まれているせいでそれもできない。
竹串は中指で止まった。
「ふふん」
中指の爪の両脇がつつまれた。そのまま持ち上げられた。
ゆっくりと竹串が近づいてくる。
御子神の顔が引きつる。
制止を声を上げようとしたが、喉が強張ってぐるぐるっと猫のような音が出ただけだった。
人は恐怖がゆっくりと迫ってくる時、わななきながらただ見つめることしかできないのだと学んだ。
竹串の先端が爪と指の肉の間に触れた。
少しづつ竹串が侵入してきた。
まだ深爪の範囲だ。指先に異物感はあっても、まだ痛みはない。
しかし、もうすぐだった。
ずるっと爪と肉の間に入ってきた。
始めに感じたのは違和感だった。
一拍の間をおいて、爪の間に刺を刺してしまった時の数十倍の痛みに全身がこわばる。
更に竹串から染み出た灯油が傷をなぶった。
神経に直接、油をかけるようなものだ。痛まない筈がない。
ずずっともっと奥に入ってくる。
「ーーーーーーー!」
悲鳴すら声にならない。
怖いのに、視線を自分の指先から外すことができない。
まだ竹串は爪の半ばまでしか刺さっていない。
この痛いのがもっと爪の根本まで来て、もっと痛くされる。
やめて、と懇願しようとした。
「いい子だ、我慢するんだぞ」
唐橋はにこやかに刺してきた。
「ーーーーーーーー!!!!! ーーーーーー!!!!」
根本まで刺してぐりぐりと回している。
涙は流れるのに痛すぎて、声が出ない。
お願いやめて、と懇願することができない。
「頑張ったいい子にはご褒美だ」
唐橋は燐寸をする。
硫黄の臭いと供に小さな火が点る。
それを芯まで灯油が染み込んだ竹串に近づけてくる。
御子神は泣きながら頭を振るが、唐橋は容赦がなかった。
竹串の尻から爪に向かって、火が走る。
そして、爪の中まで。
「あぎゃぎゃがぁっ!」
やっと悲鳴が出せた。
肉と神経が焼ける痛みはより原始的で力強く、人の意思など簡単に挫くことを知った。
芯まで灯油が染みているせいで、火は簡単には消えない。
爪と肉が焼ける独特の嫌な臭いを出しながら、指先は次第に炭になっていく。
「言う、言うから。全部喋るから、やめて」
涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった御子神が懇願する。
だが唐橋は、
「なにを言う。革命するんだろう? 命がけで政府を倒して新しい世の中作るんだろ? この程度でくじけちゃ駄目だ。お前が喋ったら仲間はどうなる? 皆、捕まるぞ。お前は仲間の命を背負ってるんだ。頑張れ」
残りの指も、文字通り爪に火をともされた。
ぐずぐずに泣き崩れる御子神を唐橋は冷ややかに見下ろしていた。
御子神の様子からは、意思で痛みも恐怖も捩じ伏せ、どれだけ傷つけられようと挫けず、遂には殉教に至る可能性は感じられない。
いつもこうだった。
革命だとか人民だとか立派なことを唄うくせに、ちょっと責めただけで崩れる。
溜め息しか出ない。
いつになったら意思の力を見れるのか。
どれだけ繰り返したら、なるほど人は生きるに価する素晴らしい生き物だと納得させてくれる者が現れるのか。
道のりは果てしなく遠く、唐橋は祈るべき神を持たなかった。
机の上に崩れ落ちた御子神の顔を髪を掴んで持ち上げた。
「もういい。がっかりだ。知ってることを話せ。そしたら楽にしてやる」
問われるままに御子神は仲間の名前からアジトの場所まで、全て白状した。
もう脱け殻になってしまった御子神の両手に新たに手錠が掛けられた。
唐橋が釘抜きで手の甲を縫い付けていた釘を抜いた。かなりの痛みがあるはずだが、燃え尽きてしまった御子神はもう何の反応も示さなかった。
机に作り付けの手枷からも解放される。
そして手錠に鎖がかけられ、チェーンブロックで天井近くまで吊り上げられた。
それでも御子神は反応しない。
唐橋は道具箱を漁っている。手にしたのは包丁だった。使い込まれているが、よく研ぎあげられた包丁だった。冴え冴えした光を放っていた。
無造作に包丁が御子神の喉から臍下まで一閃された。
鮟鱇の吊るし切りと同じだった。
腹腔が縦に割れ、湯気をたてる腸が床にまでこぼれ落ちる。
唐橋はゴムホースを加えると、おもむろに御子神の腹の中に頭を突っ込んだ。
人の胎内は目を閉じると、海の音がした。
血の臭いのは潮の香りだった。
脈打つ血は潮騒だった。
生々と感じる体温と内臓の感触は、母なる海そのものだった。
唐橋は御子神が冷たくなるまで、海に潜っていた。