ナポレオンを倒したアレクサンドル一世
ロシア皇帝の話にはいる前に、18世紀末から19世紀初頭のヨーロッパ状勢を解説します。
それでは始めましょう。
18世紀末になると、ヨーロッパ各国は、フランスを警戒するようになります。
その背景は、1789年に起こったフランス革命に遡ります。フランス革命では、国王が自由を求める民衆に処刑されました。
当然、革命の余波が自国に及ぶことをヨーロッパ各国は恐れました。
そこで、ヨーロッパ各国はフランスに介入するようになり、フランスは対外的脅威に晒されます。
しかし、そんな危機的状況を解決し、フランスを纏めたのがナポレオンでした。
ナポレオンは、フランスに攻めてくるヨーロッパ諸国を打ち負かしていきます。
また、対外進出を積極的に行い、ヨーロッパ制覇を狙うようになります。
しかし、イギリスだけは、正面からの戦闘で倒すことが難しかったのです。
そこで、ナポレオンはイギリスの経済封鎖を行うことでイギリス打倒を目指します。
この経済封鎖が、大陸封鎖令「ベルリン勅令」です。
イギリスからの輸入品がヨーロッパ大陸に流れないようにしたり、また、イギリスに向けた穀物などの輸出をヨーロッパ各国に呼び掛けて禁止しようとします。
しかし、ロシアはイギリスに小麦を輸出することで利益を得ていたのでこれを無視します。この時のロシア皇帝が、1801年に即位したアレクサンドル一世でした。
当然、ナポレオンは激怒します。そこで、ナポレオンは1812年にロシア遠征を開始します。
しかし、戦争の天才であったナポレオンは徹底的に負けました。
果たして、ナポレオンは何故負けたのか?
結論からいうと、ナポレオンはロシアの厳しい厳冬とアレクサンドル一世による焦土作戦に負けたのです。
焦土作戦がどのような作戦かわからない人もいると思いますので、実際の戦争の状況を解説することで説明します。
1812年6月、ナポレオンはロシアに遠征するため50万以上の軍を引き連れます。
1812年9月、モスクワ近郊のボロディノに侵攻を行いました。これがボロディノの開戦です。この時、ロシア軍は撤退し、ナポレオンはモスクワを占領します。
※ちなみに、ナポレオンがモスクワに入城したときには、フランス軍の大部分を消耗していたとも言われています。
しかし、ロシア軍はなんとモスクワに火を放っていたので、全く食糧を残さないようにしたのです。
これこそが、焦土作戦です。
簡単にいうと、自分の領地を燃やすことで、敵に食糧を与えないようにする作戦のことです。
この焦土作戦により、ナポレオンの軍隊は十分な食糧を得られない状態で、ロシアの厳しい冬の気候を経験します。
これには、ナポレオンの軍隊はひとたまりもなかったようです。
最終的に、遠征開始時に50万いた軍隊は2万しか生還できなかったと推定されています。
そして、覇者であったナポレオンはこの敗北をきっかけとして徐々に失脚していきます。
最終的にイギリスの将軍ウェリントンとのワーテルローの戦いでナポレオンは敗北し、セントヘレナ島に島流しされてしまいます。
話は逸れましたが、あの戦争の天才を徹底的に破ったのが、ロシアの皇帝アレクサンドル一世であったことを是非学習してほしい。
以上。