コメコン成立から解散まで
スターリン⑭で、コメコンはうまく行かなかったと論じたので、その成立から衰退、解散までの流れをまとめました。
ゴルバチョフ⑥~⑦で、ソ連の崩壊を論じましたが、同年、コメコンは解散します。これを覚えてほしいのでコメコンの衰退の経緯を改めて勉強しましょう。
それでは、コメコンについておさらいしましょう。これは、1949年に発足したソ連と東欧の社会主義国家間の経済援助体制のことです。
アメリカのマーシャルプランに対抗して、東欧の結束を強めようとしたのが、そのきっかけとなっています。
このコメコンという体制ですが、実はフルシチョフの頃から歯車が少しずつ狂っていきます。
成立初期のコメコンは、社会主義国の工業化とインフラ整備が主たる活動となっていました。
しかし、フルシチョフは1958年の西側のヨーロッパ経済共同体(EEC)の成功をみて、コメコン加盟国の分業体制を確立しようとします。
すなわち、農業国と工業国を分担して、西側への対抗を目指します。
しかし、ルーマニアは農業国に指定されました。これにルーマニアは強く反発して独自の工業化を進めます。
更に、アルバニアという国は、スターリン主義的な国家でしたので、スターリン批判後に中ソ対立が起きると中国に接近します。
このような背景から、1962年にアルバニアがコメコンから脱退し、足並みの崩れが見え始めます。
そして、1970~1980年代になると、計画経済の行き詰まりとコメコン加盟国間での経済格差も拡大していき、衰退に拍車がかかります。
1989年の東欧革命が勃発すると、事実上機能は停止します。
最終的に、ソ連が解体した1991年になるとコメコンは完全に解散するのです。
※同じ年にワルシャワ条約機構も解散したことを覚えておきましょう。