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世界史講義録 ロシア史への誘い  作者: 鸛
ロシア史基礎編
73/75

ゴルバチョフ⑥ ソ連崩壊 民主化拡大とエリツィン台頭

前回のおさらいです。ゴルバチョフによって行われた新思考外交によって東欧各国で民主化革命が起こりました。これが、いわゆる「東欧革命」です。


それを踏まえた上で、何故ソ連が崩壊したのか?考えてみましょう。ソ連が崩壊した主たる理由は、下記の通りだと考えられます。


①民主化要求の拡大

②エリツィンの台頭

③経済の破綻


本当はもっと色々な理由が挙げられるのでしょうが、本講義録では、この三つに絞って解説します。なお、この記事では①と②を解説し、③は次回解説します。


早速、①と②を解説します。


冒頭でお話しした通り、東欧で民主化の動きが活発になったわけですが、その動きがソビエト連邦内部にも波及していきます。


例えば、バルト三国(エストニア、ラトビア、リトアニア)は、独ソ不可侵条約によってソ連に併合されましたが、1990年3月以降、独立を宣言します。


さらに、同じ年のコーカサス地方のグルジア(現ジョージア)やロシアまでも主権宣言を行います。


そして、ソ連にとって致命的だったことは、ロシアも主権を宣言したことです。このときに、力をつけて台頭したのが急進派のエリツィンでした。


エリツィンは1990年5月にロシア最高会議議長となりました。翌91年6月になると、ロシアで大統領制を導入します。


この時の選挙によってエリツィンは、初代ロシア大統領に就任します。


こうして、ソ連大統領となったゴルバチョフとロシア大統領エリツィンは対立します。


この状況に対処するために、ゴルバチョフは91年8月、ソ連を主権国家の連合体として再編しようとします。


しかし、ヤナーエフ副大統領など、ソ連共産党内の保守派は「急進派の意向を組んだソ連の再編など、ソ連崩壊をもたらしてしまう」という風に考えていました。


そこで、8月19日、ゴルバチョフが休暇でクリミアに滞在している隙をついて、首都モスクワでクーデターを敢行します。


この保守派が起こしたクーデターを八月政変といいます。


しかし、結果からいうと、保守派のクーデターは失敗に終わります。このクーデターを鎮圧したのは、エリツィンでした。エリツィンは、民衆に反クーデターを呼掛けて、保守派を抑えこみました。


こうして、22日にヤナーエフらは逮捕されます。


また、クーデターの後、エリツィンの力が増大したため、ゴルバチョフの立場は急速に弱まっていきました。


エリツィンは、1991年12月、連邦を形成していたロシア、ウクライナ、ベラルーシの3共和国がソ連解体と独立国家共同体(CIS)の創設を宣言しました。


そして、ゴルバチョフはソ連大統領を辞任し、ソ連がついに崩壊したのです。


以上が歴史の流れです。ここまで理解していれば教科書的には十分ですが、今回話していない③こそが、このような事態に至った根本的な背景です。



③はどのように起こったか、簡単に紹介すると、ペレストロイカの失敗があげられます。ペレストロイカでは、ブレジネフ時代の停滞した経済を立て直すために、市場経済導入も限定的に認めました。


ところが、これは失敗し、ソ連でインフレが起こりました。


このインフレが最も激しく起きたのは、ソ連が崩壊した直後のエリツィンの時代ですが、その兆候は、ゴルバチョフの時代から見られています。


では、何故インフレが起きたのでしょうか?その辺を次回詳しく語りたいと思います。

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