エカチェリーナ二世の政治
前回、エカチェリーナ二世が波瀾万丈な人生を歩みながらも、ロシアの女帝として君臨するまでのお話をしました。
そのストーリーはとても面白いのですが、入試ででるポイントは、残念ながらエカチェリーナ二世の困難な人生ではなく、その政治がメインとなります。※むしろ、政治の出題確率が九割です。
そこで、今回はエカチェリーナ二世の政治がどのようなものであったか勉強していきましょう。
まず、エカチェリーナ二世はフランスの啓蒙思想に触れてきましたので、啓蒙専制君主として開明的な政治を行います。
しかし、ステンカ=ラージンの意思を受け継いだのか、コサックの反乱がロシア国内で再び起こります。
これが、「プガチョフの反乱」です。この反乱をきっかけに、自由主義思想を俳して農奴制は強化しなければならないと考えるように方向転換します。
従って、エカチェリーナ二世の時代、農奴制は強化されるのです。
次に、ピョートル一世の頃から始まった南下政策をエカチェリーナ二世も継承します。
ピョートル一世の頃は、南下政策によってロシアの領土がアゾフ海まで拡大します。
しかし、エカチェリーナ二世の頃になると、当時勢力を伸ばしてきたオスマントルコを撃退して黒海進出を行い、クリミア半島まで勢力を拡大するようになるのです。
※その目的は、一言でいうと小麦の輸出ルート確保であったことも押さえておぎしょう。
また、プロイセンのフリードリヒ、オーストリアのマリア=テリジアと組んでポーランドの国土を分割して奪い取り、占領します。
死ぬ一年前には、第三回の分割を行ってポーランドを地図上から抹殺してしまいました。
※ポーランドはここから、受難の歴史が始まりますが、それは別の機会にお話しします。
更に、東方においては、アラスカを占領したり、千島も占領します。
このようにして、エカチェリーナ二世の政策は、基本的に対外政策に力を入れている点が理解できると思います。
しかし、対外政策と農奴制強化の結果、エカチェリーナ二世の死後も農奴達の自由を求める反乱が盛んに行われるようになりました。
いずれにせよ、エカチェリーナ二世の時代にロシアの領土は更に広大なものとなり、大国へと成長していったと言えます。
日本にラクスマンを使節として送ったのもエカチェリーナ二世です。
その背景として、大黒屋光太夫という日本人が、ロシアに漂流したことがあげられます。
光太夫は、漂流後、エカチェリーナ二世と謁見します。
その時に同情したエカチェリーナ二世は、光太夫を送り返すことを決意します。そして、光太夫はラクスマンに連れられて日本に戻ってきました。
光太夫の帰還は、前例のないことであったため、当時の江戸幕府を困惑させたとのこと。