ゴルバチョフ① 生いたち編
※ゴルバチョフの生いたちから話始めていますが、生い立ちなんか全く入試ででません。しかし、色々考えた結果、ゴルバチョフを理解する上で一番面白い理解の仕方は、ゴルバチョフの生い立ちを知ることであり、そこから、ゴルバチョフが成り上がっていく様子を語りたくなりました。
ソ連のスタヴロポリ地方プリヴォリノエ村と言えば、南ロシアを代表する農村地域でした。
そんなプリヴォノリエ村で、1931年3月、農民の子としてミハイルゴルバチョフは誕生します。
ゴルバチョフは幼少の頃から、ミーシャと呼ばれて親しまれていました。※ちなみに、若いときのゴルバチョフはイケメンでしたね。
しかし、1941年になると独ソ戦が開始します。スタヴロポリ地方は一時期、ナチスドイツに占領され、ミーシャは戦争を目の当たりにしました。
そんな不幸な戦争も終結に向かいます。
この頃のミーシャは、貧しかったです。
貧しい家庭を支えるために14歳でコンバインの運転手として働く一方で、勉学に励みました。
とにかく、ミーシャは、必死で勉強していきます。
結果、上級学校では、成績優秀者として銀メダルを授与されました。
また、18歳で労働赤旗勲章を授与される機会に恵まれます。
それをきっかけに、1950年、19歳の時にスタヴロポリ市当局の推薦でモスクワ大学法学部に入学します。
※この出来事は、当時のモスクワの新聞で代々的に紹介されました。
ミーシャは大学に入学するとストロミンカ学生宿舎で生活します。学生時代は、地方出身の遅れを取り戻すために、いつも図書館に籠って夜遅くまで勉強していました。
また、ミーシャはチェコスロバキアから留学していたズデネク・ムリナーシと出会います。
ムリナーシは後の「プラハの春」の推進者の一人となり、その後のミーシャに大きな影響を与えます。
ムリナーシは、ミーシャの人柄に対してこう振り返ります。
「彼は、イデオロギーとしては共産主義者でした。当時は、スターリンが中心でしたのでスターリン主義だったと言えます。ところが、彼は現実とイデオロギーに食い違いがあると、現実を自分の目でみて確認し、現実の方を信じるのです。ミーシャは、学生の頃から改革者としての資質を兼ね備えていたと思います」
このように、ミーシャは学生時代、徹底的に勤勉にすごし、改革者としての片鱗を示すようになります。
※なお、大学在学中にミーシャはソ連共産党にも入党したこともミーシャを知る上で重要なポイントです。
そして、ミーシャは大学卒業するとスタヴロポリに移住します。
ここで、農業の勉強をするようになりました。
やがて、スタヴロポリ地域の農業行政官となり地区書記に昇進します。
更に、正直で改革の志のあることで名声を高め、政界の階段を駆け上がっていきました。
(次話に続く。)
※生いたち編では、主語をミーシャとしました。幼少期の家族や友人、また、大学の知人からもゴルバチョフはミーシャと呼ばれているからです。一方、次の話以降では、主語をゴルバチョフに戻させてください。




