ブレジネフ③ プラハの春とチェコスロヴァキア軍事介入
1968年、ソ連を脅かす出来事が起きます。
チェコスロヴァキアで、ドプチェク書記が就任し、民主化運動が起こるのです。
ドプチェクは、戦後のチェコスロヴァキアが実質的にソ連の支配下であり、言論の自由もないことに疑問を抱いていました。
また、密告で隣人同士牽制しあうスターリン主義的な社会をおかしな社会であると考えていました。
そこで、ドプチェクが就任すると、「人間らしく、自由にいきることのできる、当たり前な社会」を目指そうとします。
このドプチェクのスローガンは、しばしば「人間の顔をした社会主義」と言われます。
具体的には、これまでチェコスロヴァキアでは、テレビ放送や新聞の内容が検閲されていましたが、検閲を廃止します。
マスコミが自由な報道を行えるようになったのです。
更に、経済の自由化を認めます。そして、ドプチェク自身も、我々はソ連の支配下にないということを民衆に演説するのです。
こうして、民衆はこの自由化を支持して、政府と国民が一丸となって、民主化運動が進みます。
これが有名な「プラハの春」です。
しかし、これを見たブレジネフは黙っていませんでした。
ドプチェクとブレジネフは対談し、ブレジネフはドプチェクにいいました。
「人間の顔をした社会主義といっているそうだが、我々ソ連はどういう顔をした社会主義国なのか?」
ドプチェクは、この質問に黙っていたそうです。
その後も、何度も対談を行い、ソ連が「検閲制を復活させろ」など様々な要求を突きつけますが、ドプチェクはこれらの要求を飲みませんでした。
こうしたドプチェクの姿勢に感化され、ポーランドや東ドイツなど、ワルシャワ条約機構の主要国でも民主化の波が広がろうとします。
これにソ連と東欧各国は強い危機感を抱き、チェコスロヴァキア抜きで秘密会談を行います。
ワルシャワ条約機構の各国は、ソ連に軍事介入を進言します。そして、ブレジネフも軍事介入を行うべきと決断します。
こうして、1968年の同年にワルシャワ条約機構軍がチェコスロヴァキアに侵入します。ソ連軍の戦車も沢山チェコスロヴァキアに侵入します。
この時、ドプチェクは逮捕されるのですが、民衆はこれを黙ってみていませんでした。
戦車の前にて、丸腰の人間が行く手を阻んで立ち塞がるなど抵抗を続けます。
また、ドプチェク逮捕後もソ連に隠れて放送を行ったり、ポスター等で批判を行うなど抵抗を続けます。
しかし、最終的にドプチェクがソ連に署名し、改革は挫折します。ドプチェク自身は、その時のことをこう振り返ります。
「私自身は身を守るすべを確保していたが、民衆は違う。民衆は、武器も持たずに戦車と戦っている。こうした民衆の命を守るためには、署名せざるを得なかった。この決断は、誰に批判されようが、今でも正しかったと思っている。」
こうして、ブレジネフ政権の軍事介入により、チェコスロヴァキアの民主化は頓挫します。
その後も、チェコスロヴァキアでは名も無き学生が、ソ連に抗議して焼身自殺を行ったそうです。
この時、名も無き学生の弔いに、自分達の民主化運動挫折の悲しみを重ねて、チェコ市民がみんなやってきたそうです。
結局、チェコスロヴァキアで民主化が実現するのは、次の政権であるゴルバチョフ政権の時代になります。
しかし、こうした民主化運動は、無駄に終わりませんでした。
この一連の出来事は、後の歴史において、ソ連という巨大な権力に対抗する東欧の希望となったのです。
また、この時代、メディアの時代に突入し、ソ連のチェコスロヴァキア軍事介入の全容を世界が知ることになりました。
これには、ソ連に対する国際的な批判があつまります。
そこで、ブレジネフは、チェコスロヴァキアの軍事介入を正当化するためにブレジネフ=ドクトリンという宣言を行います。
すなわち、社会主義陣営の利益のために国家主権の制限を認めるという考え方であり、これはしばしば、制限主権論と言われます。
こうした、批判も集り、一連のチェコで起きた出来事は、米ソ冷戦を終息に向かわせる出来事の一つとして今日語られます。




