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世界史講義録 ロシア史への誘い  作者: 鸛
ロシア史基礎編
63/75

ブレジネフ① ブレジネフの台頭から米ソ軍縮

軍縮の歴史というのは、覚えにくいのですが、しっかりと覚えると差がつくところです。従って、ブレジネフといえば、真っ先に覚えてほしい分野が軍縮についてです。


また、一問一答などの用語集で、機械的に覚える方がいそうですが、東大とかでは、用語が埋められることよりも、用語がどんなものか?論じられることが大事です。これから語りますが要点は下記の通りですね。


①部分的核実験停止条約は、キューバ危機を経験したため、核実験に制限を設けようとしたことが背景にある条約です。


②核拡散防止条約は、核兵器の保有国を決定しました。それ以外の国で核を作らないようにすることが目的です。※インド等が後に反発。インド史でやがて話します。


③戦略兵器削減交渉は、アメリカとソ連が軍事バランスを調整するために行った交渉です。


④核戦争防止協定は、米ソ間で核戦争を回避することが目的です。


こういった一連の条約の内容を上のように簡潔に理解しておくと、いいなと思います。それでは、詳細を語ります。


農業政策等に失敗したフルシチョフは、1964年に失脚します。


その後、ソ連の舵取りを行ったのは、ブレジネフでした。ブレジネフは、ソ連共産党書記長に就任します。


このブレジネフという人物ですが、ソ連の国民からは誠実な人物と思われていたみたいですね。


実際に労働者と話し合いを行ない、不満などを聞いてまわったとか伝えられています。


さて、ブレジネフは就任当初から、中国との関係悪化などの問題を抱えていました。※きっかけは、フルシチョフのスターリン批判でしたね。


また、アメリカと対立し続けていると軍事費が洒落になりません。そのため、ブレジネフはアメリカと和解し、国際的地位を高めることが国益に繋がると考えます。


一方、アメリカもまたベトナム戦争で国際的地位が失墜していました。更に、1960年代からアメリカドルの信頼性も地に落ちてしまいます。これをドル危機といいます。


※この詳細についてすごく語りたいですが、やがてアメリカ史等別の講義録で語ります。


従って、アメリカもソ連と和解することで軍事費を削減するともに、国際的地位を高めようとしたのです。


そこで、両国は前々回講義録でお話ししましたように、デタント政策を積極的に進めるようになるのです。


ちなみに、そもそもデタント政策のきっかけは、キューバ危機であったといえます。その結果、1963年に部分的核実験停止条約が行われて、デタントが開始したといえます。


しかし、この条約が締結したあとも米ソ和解に向けた様々な動きがあり、その背景をキューバ危機だけで語りきれないと思っています。


そんなわけで、米ソ両国は、上述したように色々な思惑から上手く和解できないか?と模索するのです。


導入が長くなって申し訳ございません。


では、具体的には、どのようなことが行われたのでしょうか?それが、核兵器保有のルール作りや軍縮なのです。お互い武力で争い会わずに、軍事面で取り決めを行いましょうという流れになるのです。


そこで、1968年になると、米、ソ、中、仏、英で核拡散防止条約が結ばれます。これは、この五か国が正式な核兵器保有国であり、それ以外の核兵器保有を禁止するといった内容です。


※この取り決めですが、核保有大国による核独占を行ったにすぎないとして、後の現代史をみるとインドや中東諸国などで反対する国が出てきますね。いずれにせよ、この五か国が核を保有するという取り決めは、ブレジネフの頃から出来上がりました。


また、1972年には第一次戦略兵器削減交渉が妥結します。※略称SALT-1です。これは非常によく出ます。


戦略兵器とはなにかというと、相手の政治中枢を直接攻撃できるような、核弾頭を装備できるミサイルのことです。例えば、大陸間弾道ミサイルとか潜水艦発射ミサイルなどが該当し、これに制限を設けました。


ただし、このSALT-1は核兵器根絶などという目的の交渉ではありませんでした。簡単にいうと、冷戦下で、ソ連とアメリカのパワーバランスを調整することが目的であり、有効期限も5年でした。


当然、第一次交渉のあとにも、米ソパワーバランスは重要な問題であり、第二次交渉(SALT-2)も行われます。しかし、既に結果を語ると、第二次交渉は上手くいきませんでした。それは、後の講義録で語りたいと思いますが、まず、SALT-1を覚えましょう。※よく出るからです。


更に1973年には、核戦争防止協定が結ばれます。条約の内容は、名前の通りで、アメリカとソ連による核戦争回避の合意を意味します。こうして、アメリカとソ連は核戦争を回避する方向に交渉を行ない、和解の道を模索するのです。


最後に、1975年にブレジネフの提案で全欧安保協力会議(CSCE)が設立します。ヨーロッパ諸国、ソ連、アメリカ、カナダが参加して安全保障における協力体制を構築します。そして、CSCEでは、最終合意文書としてヘルシンキ宣言が採択され、相互の主権尊重、武力不行使、国境不可侵を取り決めました。


以上、ブレジネフ政権になるとデタントが進んでいき米ソの対立は、緩和していったかのように見えました。











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