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世界史講義録 ロシア史への誘い  作者: 鸛
ロシア史基礎編
61/75

フルシチョフ⑥ 反ソ暴動と中ソ対立 ゴムウカは生き延び、ナジ=イムレは処刑される。

第二十回共産党大会では、フルシチョフによってスターリン批判が行われました。


スターリンは、大粛清によって多くの名誉ある党員を無実の罪で処刑します。


その過ちを批判したフルシチョフは、西欧資本主義国と東欧共産主義国が共存していく道を模索したのです。


このことは、各国に衝撃を与えます。


例えば、東欧では、スターリンのいう通りにやってきた自国政府やソ連に対する反発へと発展していきます。


その結果、ポーランドとハンガリーでは暴動が起きます。


これを「反ソ暴動」といいます。ポーランドとハンガリーの反ソ暴動は、どのようなものだったか?それぞれ勉強しましょう。


始めに、ポーランドにおける反ソ暴動を語ります。これは、1956年にポズナニで労働者や学生を中心に勃発します。


そこで、ソ連が軍事介入してくることを恐れたポーランド政府は、治安部隊を動員してこの暴動を短期間で鎮圧します。


しかし、ポーランドでは、ポズナニでの暴動に参加した労働者達に同調する空気が生まれます。


そんな中で、もともとスターリン及びスターリン主義者に批判的であったゴムウカが台頭してきます。


ゴムウカは、10月17日のポーランド統一労働者党中央委員会総会第一書記(党のトップ)に選出されて政権を担うようになるのです。


そして、ゴムウカは政権を獲得してすぐにソ連と対談します。


その対談で、ポーランドは共産圏から離脱せず、ワルシャワ条約機構から脱退する事もしないとソ連に約束します。こうして、ゴムウカは、ソ連からの軍事介入を受けることなく、1970年まで政権を持続させます。


一方、1956年、ハンガリーでも反ソ暴動が勃発します。ポーランドと同じ年に起きたのですか、ポーランドとハンガリーは全く違う未来を辿ります。


まず、ハンガリーでも、学生や労働者たちが首都ブダペストで民主化に向けたデモを行います。


しかし、この運動は、政府でも押さえきれないほど拡大していきます。※そこは、ポーランドと異なる点です。


そして、運動は全国に拡大し、当時の首相であった「ナジ=イムレ」も国民にソ連からの独立を約束します。


更に、ナジ=イムレは「ワルシャワ条約機構脱退」や「複数政党制」実現をスローガンとして掲げます。※ここも、ゴムウカとは方針が異なる点です。


しかし、ソ連はワルシャワ条約機構脱退など絶対許せなかったのです。何故なら、それを認めてしまうと、各国で脱共産主義が東欧全体に拡大していくからです。西欧諸国のNATOに対抗することもできず、冷戦どころではなくなると言えます。


この動向を見たソ連は、ハンガリーに軍事介入を行います。そして、ナジ=イムレも逮捕され、最終的に銃殺されます。


こうして、1956年、ハンガリーとポーランドでは反ソ暴動が起きますが、進んできた道が違ったため全く違う未来をたどりました。それぞれ覚えておきましょう。


最後に、中国です。中国共産党では毛沢東を中心に、スターリン批判に反発します。


特にフルシチョフが打ち出した戦争不可避論の否定や平和的手段による社会主義の実現といった思想は、マルクス主義の原則に反するものとして激しく非難します。


こうしてソ連・中国関係は悪化し、1960年には中ソ論争に発展しました。














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