フルシチョフ④ スプートニクショックとNASAの設立など
1957年になると、ソ連が人工衛星の打ち上げに世界ではじめて成功します。これが、有名なスプートニク1号です。
この出来事は、「スプートニクショック」と呼ばれ、アメリカに衝撃を与えます。
何故なら、アメリカは、大陸間弾道弾(ICBM)の開発がソ連より進んでいると信じていました。
ところが、ソ連の人工衛星打ち上げの成功は、「ソ連のICBMの技術がアメリカよりも高いこと」を示したといえるのです。
何故、そのように言えるのでしょうか。
まず、ICBMを飛ばす場合、大気圏を越えて宇宙空間までミサイルを飛ばす技術が必要です。
更に、人工衛星を地球の周回軌道上に乗せるためには、高度で精密な弾道計算技術が必要になるのです。
その意味で、スプートニク号の打ち上げ技術は、ICBMに転用できる技術であったのは明白です。
アメリカも、ヴァンガード計画などでこれに対抗しようとしますが、結局失敗します。
従って、いつソ連のミサイルが打ち込まれるかがわからない状況になったため、アメリカ国内に恐怖が広がるのです。
アメリカは、この劣勢を覆すために宇宙開発競争に注力します。
1958年になると、こうした背景から、アメリカ航空宇宙局NASAが設立されるのです。
※NASAは、スプートニクショックが背景となって生まれたことを知っているといいでしょう。
また、こうした中で、1959年になるとフルシチョフがソ連首脳としてアメリカを初めて訪米します。
この時行われた会談が、有名な「キャンプ=デーヴィッド会談」です。
キャンプ=デーヴィッド会談では、すべての重要な国際問題は,武力に訴えることなく,交渉による平和的手段によって解決されるべきであるという合意が形成されます。
これによって、スプートニクショックの表面的には緊張が和らいだように見えました。
ところが、翌年1960年になると、アメリカの偵察機であるU2が、ソ連領空に侵入したので迎撃されます。
これをU2迎撃事件と言います。U2の党乗員は捕虜となり、ここでアメリカとソ連の緊張は再び高まります。
そして、1961年になるとドイツでベルリンの壁が築かれます。
東ドイツでは、西ドイツに逃げ出す人が沢山いたため、ベルリンの壁を作ることで、人口流出を防ごうとするのです。
このベルリンの壁建設もまた、冷戦時代におけるアメリカとソ連の対立を象徴する歴史的瞬間だったのではないかと考えています。
このように、平和共存路線を唱えてきたフルシチョフですが、1950年代後半から60年初頭にかけて、アメリカと対立が生じていきます。
そして、この水面下で生じていたソ連とアメリカの対立は、1962年に最も大きなものになるのです。
1962年になにが起きたのでしょうか?
そこを次回の講義録で解説します。




