フルシチョフ② 雪どけ
前回のおさらいをしましょう。
1956年の第二十回共産党大会にて、「平和共存路線」が明確化されます。
しかし、平和共存路線という外交方針は、フルシチョフが党第一書記として活動し始めた頃から少しずつ進行していました。
何故なら、フルシチョフの時代、東西の争いが少しずつ解決したり、東西間での話し合いも行われるようになるからです。
そのことについて、1つずつチェックしましょう。
まず始めに、特筆すべきことは朝鮮戦争です。
1953年の七月になると、朝鮮戦争における休戦協定が成立しました。スターリンが始めた朝鮮戦争の混乱は、フルシチョフの時代で終結するのです。
また、1954年になるとインドシナ戦争も休戦協定が結ばれます。
インドシナ戦争については、東南アジア史のなかでもベトナム史を話すことがあれば詳しく語りたいです。
ここでは簡単に語ります。
ベトナムは、第二次世界大戦中に日本軍の支配を受けますが、もともとフランス領でした。
従って、戦後、フランスがベトナムにおける植民地支配を続けようとします。
これに対抗して、ベトナムではホー=チ=ミンを中心にベトナム独立同盟、(略称ベトミン)が結成されます。
こうして、独立を目指すベトナムとフランスの間でインドシナ戦争が勃発します。
この時、アメリカはアジアへの共産主義拡大を嫌がって、フランスを支援します。
同様に、アジアへの共産主義拡大を目指して中国やソ連もベトナムを支援し始めます。
つまり、インドシナ戦争は、ただの独立戦争ではないのです。独立戦争をきっかけとして、東西の対立が表面化する戦争でした。
しかし、この問題についても、ジュネーブ会議においてジュネーブ休戦協定が結ばれ、解決に向かいます。
更に、1955年に入るとオーストリア国家条約が結ばれます。
これによって、米・英・仏・ソは分割占領していたオーストリアの独立回復を承認します。
もう少し詳しくいうと、オーストリアは、第二次世界大戦中にナチス=ドイツに併合されていました。だからこそ、ナチスがいなくなったあと、オーストリアはドイツのように分割統治されてしまいます。
そのオーストリアをドイツのように分断国家にするのではなく、各国は永世中立国となることを条件として、オーストリアを独立させるのです。
更に1955年7月にはジュネーブ4巨頭会談を開催されました。
名前は印象的ですが、この会議では、特に具体的な取り決めがありません(笑)
この会議の意義とは、米英仏ソが結集し、話し合うようになったことです。
最後に、1955年に9月にはソ連が西ドイツと国交を結ぶようになります。
この一連の様子を、冷戦が緩和しているため「雪どけ」といったりします。
そして、このようなソ連の外交の様子を見てみると、第二十回共産党大会での宣言の前から、「平和共存路線」を取っていたのです。




