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世界史講義録 ロシア史への誘い  作者: 鸛
ロシア史基礎編
55/75

フルシチョフ① 平和共存とスターリン批判

前回お話ししました通り、ソ連では、長らく独裁を続けてきたスターリンが1953年に死去します。


その後は、ベレヤやマレンコフらが権力を掌握します。


マレンコフは、この時、共産党の第一書記と首相を兼任します。


しかし、マレンコフ自身が、スターリンのような個人独裁体制を嫌っていたため、複数の同志による集団指導体制を目指していました。


そこで、マレンコフは第一書記の地位をフルシチョフに讓りまた。


こうして、一時的にですが、マレンコフ、ベレヤ、フルシチョフ三名によるトロイカ体制という政治体制が構築されました。


※トロイカとは、ロシア語の3です。トロイカ体制を簡単にいうと、三頭政治のようなものです。


※しかし、後の歴史ではベレヤは処刑されたり、マレンコフは追放されたり、まあ、複雑な変遷が続きます。


ポイントとして、そんな複雑な変遷を覚えなくていいので、フルシチョフが1955年までに権力を掌握するようになったことは覚えてください。


さて、そんな中でフルシチョフのポイントとして最も押さえてほしい歴史上のイベントは、第二十回共産党大会です。


この大会で、フルシチョフは二つのことを主張します。


①平和共存路線

②スターリン批判


平和共存とは、冷戦期に示された考え方の一つであり、「資本主義の国家」と「共産主義の国家」は共存しうるという考え方です。


実は、ソ連は平和共存路線に転じて様々なことを行うのですが、それは後の講義録でお話しします。


重要なことは、第二十回共産党でソ連が正式に平和共存路線にすすむことが決定したのです。


また、スターリン批判とは、スターリンの大粛清の誤りや個人崇拝等を批判したものです。こちらも第二十回共産党大会で行われました。


批判そのものは、秘密裏に行われたはずでしたが、アメリカに情報がリークしてしまいます。


結果、スターリン批判は新聞に掲載され、世界各国がこれを知ることになりました。


スターリン批判は、東欧、西欧、中国などに動揺を与える結果になるのですが、それは後の講義録で語ります。


まず、皆さんに掴んでいてほしい大枠は、「フルシチョフが権力をにぎり、ソ連は平和共存路線やスターリン批判を行った」ということてすね。


これを踏まえた上で、次回以降で、議論を深堀します。よろしくお願いします。

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