ピョートル一世によるロシアの近代化
17世紀初頭に、ロシアではロマノフ朝が成立しました。しかし、当時のロシアはスウェーデンやポーランドといった外敵に苦戦していた弱小国家でした。
そんなロシアを強国にしたのは、ピョートル一世です。
ピョートル一世は、自ら西欧を視察します。その時、ロシアの遅れを悟りました。
※ちなみに、当時、西欧とロシアの間では100年ほど軍事面と政治面で開きがあったとも伝えられています。
そこで、ピョートル一世はオランダ人の造船技師のところを訪れます。
なんと皇帝自ら弟子入りをして、当時最先端であったオランダの造船技術を学びました。
また、西欧化を進めるために、自ら西欧風のヘアスタイルにしたり、暦を西欧で使われていたユリウス暦に変更するなど、国内でも徹底的な西欧化を進めてきました。
そして、ロシアを発展させるためにバルト海への進出が不可欠と考えるようになります。
しかし、バルト海は当時、スウェーデンの支配下にありました。
そこで、ピョートル一世は、スウェーデンと戦争をします。これを北方戦争と言います。
初めの戦争では、僅か18歳のスウェーデン王カール12世にロシアが負けてしまいます。これをナルヴァの戦いといいます。
ところが、ロシアは執念深く諦めませんでした。最終的には、ロシアが軍を再建し、1709年のポルタヴァの戦いでスウェーデンを打ち破ります。
ポルタヴァの戦いでは、ロシアの大砲が72門にたいしてスウェーデンは大砲4門であり、圧倒的な軍事力の差を見せつけました。
1721年には、ニスタット条約という条約が結ばれたことで、ロシアはバルト海の覇権を手にします。同時に、北欧の覇者であったスウェーデンは、バルト海の覇権を失ってしまい、以後、衰退していきました。
このようにして、ロシアは後進国から強国に変化していくのです。
なお、ピョートル一世はサンクトペテルブルクという都市を建設しました。北方戦争に勝利したロシアは、このサンクトペテルブルクを通じて、西欧と交易を行うようになります。
また、北方戦争に勝利したピョートル一世は、中国の清とネルチンスク条約を結び国境を決めました。
最後に、ロシアは勢力圏を南に向けてピョートル一世の時代から南下を進めていきます。後々、南下政策が世界史上、大きな問題になりますので、ピョートル一世の時代に南下政策が開始したことも覚えておいてください。
以上。
ピョートル一世が、サンクトペテルブルクを建設します。
サンクトとは、「聖」を意味する言葉です。ペテルとは、
キリスト教の聖人ぺトロのことであり、ブルクは街のことです。
サンクトペテルブルクとは、つまり「聖ぺトロの街」という意味なのです。また、ぺトロのロシア語発音が実は「ピョートル」です。
つまり、サンクトぺテルブルクとはピョートル一世を象徴する街であったとも言えます。
サンクトペテルブルクは、単にペテルブルクということもあります。また、第一次世界大戦を迎えると、ペテルブルクがぺトログラードに改名されます。
そもそも、○○ブルクという名前の付け方がドイツ風の名前のつけ方なのです。ピョートル一世は、徹底的な西欧化を目指したため、このような名前をつけたかもしれませんが、世界大戦中のドイツはロシアの敵国です。
従って、この名前の付け方ではまずいと思って、ぺトログラードに改名されます。
サンクトペテルブルクとか、ペテルブルクとか、ぺトログラード等、世界史では耳にしますが、全部同じ都市なのです。