閑話 オスマントルコのアルメニア人大虐殺
すみません。執筆中の記事を公開していました。今後気を付けます。
前回のおさらいです。
コーカサス地方史で、アルメニアは「東部アルメニア」がロシアに支配され、「西武アルメニア」がオスマントルコ領となっていたことを説明しました。
そして、「西武アルメニアは、オスマントルコによって絶滅させられる勢いで虐殺された」と伝えました。
さらっと書いて終わりましたが、本日は、閑話としてその部分の話を詳しく紹介しましょう。
まず、皆様は、20世紀のジェノサイド(大虐殺)といえば、真っ先にナチス=ドイツによるユダヤ人虐殺を想像するかもしれません。
しかし、20世紀最初のジェノサイドは、オスマントルコがアルメニアに行ったものであり、これについて是非世界史を学ばれる方は、知っていてほしいと思うのです。
※世界史とは、世界中の人類の過ちを見つめ直す学問と思うからです。これもまた、ナチス=ドイツの虐殺にヒントを与えたかもしれない人類の過ちと思うのです。
何故、ジェノサイドが起きたのでしょうか?
簡潔に理由を語るなら、アルメニア人が熱心なキリスト教徒だったからこそ、ロシアと手を組むのではないかと疑われたからです。
第一次大戦でトルコはロシアと戦争していました。
しかし、アルメニアは国境地帯に位置していて、しかもキリスト教徒であるので、ロシアに手を貸すものと疑われたのです。
また、オスマントルコは20世紀になると、すっかり衰退していました。一方、アルメニア人の大半は農業を営んでいるものの、都市部では商業で成功するものも沢山現れていました。
そんなアルメニア人に、オスマントルコの鬱憤が向けられます。1915年になると、最初にターゲットになったのは、指導者、教育者、作家、議員など知識人です。
こういった人々を優先的に殺害したのは、抵抗勢力になるのではないかと考えたからでしょう。
その後は、アルメニア人を移送し虐殺の限りを尽くします。女性や子供にも一切容赦はせず、ありとあらゆる拷問を行うのです。
※過激な話になりすぎるので、詳細は伏せます。
この時、傷つけられた遺体が毎日ユーフラテス川を流れ、川は赤い血に染まったとも伝えられています。
この虐殺によって、推定150万人のアルメニア人が死んだと伝えられています。※アルメニアの国内の人口は、250万人だったので半分以上が虐殺されたのです。
そして、現在、この問題があまりの惨劇であったため、目を逸らされてきましたが、世界各地で追悼が行われるようになりました。
しかし、当のトルコ政府はジェノサイドとなどなかったということで事実を否認し、アルメニアとトルコの国交はいまだ断絶しているのです。
※トルコのEU加盟がいまだに認められないのは、アルメニア問題に基づきます。
アルメニアとトルコでの国交正常化を行おうとしていたのですが、2018年3月、白紙に戻りました。
争点は、やはりアルメニア虐殺の事実をトルコが認めるかどうかでした。




