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世界史講義録 ロシア史への誘い  作者: 鸛
ロシア史基礎編
42/75

閑話 コーカサス地方史①

北方領土問題のようなホットな話題をしたあとで、このような閑話を書くことにやや躊躇いがありました(笑)


タイトルがコーカサス地方史ですが、大半の方はどこだそれ?となると思うのです。


しかし、ロシアの歴史を本当に深く知りたいなら、話さざるをえないこととおもいました。少しだけ脱線してコーカサス地方史の話をします。


第一回は、19世紀の南下を進めるロシアのもとでコーカサス地域がどのようにロシア領に組み込まれたか?にフォーカスします。


なお、第二回は、スターリン政権下で、コーカサス地域がどうなったのか話します。入試に出る話というよりかは、細かい話ですので息抜きにお読みください。


もしかしたら、第三回もあるかもしれません。プーチン政権下でコーカサス地域はどうなったか?ですね。結構、この地域現代でも問題になっています。


早速解説はじめましょう。


まず、コーカサス、またはカフカース、カフカスともいいますが、皆様はコーカサス地方ときいてどんな地域なのかピンとくるでしょうか。


コーカサスの由来は、古代スキタイ語のクロウカシス(白い雪)であると考える説がありますね。なんとなく、クロウカシスという名前に、厨二心をくすぐられますね(笑)


地理的には、凄く大雑把にいうと黒海とカスピ海の間にある地域です。早速地図を見てみましょう。


挿絵(By みてみん)



地図でいうところの、ジョージア(グルジア)、アゼルバイジャン、アルメニアは南コーカサス地域に属し、そこから北のロシア連邦を含む地域が北コーカサス地域に属します。


世界史で特に重要なのは、南コーカサス地域です。そして、この南コーカサス地域のことを別名ザカフカースというのです。


※うーん。何だか導入からややこしいですね。ごめんなさい。


実は、ザカフカースという地域は、もともとオスマントルコやイラン等に支配されてきました。アルメニアを例とすると、東部アルメニアはイラン領、西部アルメニアはトルコ領でした。


しかし、19世紀になると、ロシアが南下政策を行うため、この地域を狙い始めます。


そこで、イランとザカフカースの領有を狙ってロシア=イラン戦争が勃発します。これは2回行われまして、1813年には、ゴレスターン条約が結ばれてグルジアとアゼルバイジャンはロシアへの割譲が決定します。


また、1828年には、トルコマンチャーイ条約が結ばれ、アルメニアの大半(東部アルメニア)も割譲されるのです。


そして、北コーカサス地域もまた、チェチェン人の抵抗を退け、1816~61年にわたるカフカス戦争でロシア軍に平定されてしまいました。


こうして、ロシアがコーカサス地方を領有するようになるのでした。まずはここを覚えておいてください。


※なお、完全に余談です。西アルメニアはどうなったか?オスマントルコ領でしたが、オスマントルコのもとでアルメニア人を絶滅させる勢いで虐殺が行われます。しばしばこの虐殺は、ナチスドイツのユダヤ人虐殺のヒントになったのではないかと語られることがあります。トルコが、EU加盟を断られる理由のひとつになっているのは、余談ですがアルメニア問題です。



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