ステンカ=ラージンの乱
ロシアでは、イヴァン四世の頃から農奴制が強化されました。そして、その過程で自由を求める農民が多発しました。
決定的なのは、1602年です。1602年になると、ロシアは激しい冷夏に教われて、大飢饉が到来します。
そんな中で農民の多くは、ロシアの南の草原に逃げだして集落を形成します。
これが、「コサック」と呼ばれる人々です。コサックたちは、首長に率いられ、武装するようになります。また、農業も行ったので戦士兼農民という職業だったと考えるのがわかりやすいかもしれません。
ちなみに、このコサック達の躍りが有名なコサックダンスですね。
そんなコサック達ですが、戦争が起きると兵士としてロシアの皇帝に駆り出されました。
ロマノフ朝創設期には、スウェーデンとの戦争(北方戦争)やトルコとの戦争など、度重なる戦争にコサック達が参加しため、コサック達の生活を圧迫しました。
また、コサック達は自治権をめぐってロシアと対立するようになります。
こうしたことを背景に、時の皇帝であるアレクセイ(ミハイル=ロマノフの次の皇帝)の治世時、1670年にステンカ=ラージン率いるコサック達の反乱が起きます。
これが、ステンカ=ラージンの乱です。多くの教科書では、単に農民反乱としか書いていませんので、如何なる背景のもと、この乱が起きたのかわかりにくいです。
しかし、繰り返します。コサック達は農民ですが、武装集団でもあったからこそ、戦争に駆り出されます。そこに反乱の大きな背景が存在し、その部分を学んでほしいですね。
かくして、ロマノフ朝に牙を向いたステンカ=ラージンですが、この反乱は徹底的に弾圧されて終わります。
首謀者であったステンカ=ラージンも、モスクワにある赤の広場で最後は四つ裂きの刑に処されて命を落とします。
そして、ステンカ=ラージンの死後、コサック達の自治権はますます縮小するようになります。
しかし、ステンカ=ラージンの勇気ある反乱はロシアの人々の心に英雄として記憶されるようになりました。これから100年後に起こるプガチョフの乱というコサックの反乱にも引き継がれていきます。
ちなみに、今ではあまり聞きませんが、ステンカ=ラージンの名前はロシアの民謡として語り継がれ、日本でも広まりました。
また、アレクサンドル=グラズノフによってステンカ=ラージンという交響曲も作曲されます。教科書では小さな反乱として紹介されているこの反乱が、ロシアの人々の心を如何に勇気づけてきたのか?垣間見ることができるのではないでしょうか。