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世界史講義録 ロシア史への誘い  作者: 鸛
ロシア史基礎編
30/75

レーニン③ レーニンの独裁とロシア共産党の成立

10月革命が起こると、レーニンは様々な政策に着手します。


始めに、人民委員会議(ソブナルコム)を結成します。簡単に言うと、事実上の政権運営を行う組織のことであり、政府の役割を果たします。


人民委員会議長はレーニンです。すなわち、首相の役割を果たしました。また、外務人民委員にトロツキーが任命され、外相の役割を担います。


更に、ロシアには数多くの少数民族がいましたが、その少数民族を取りまとめる少数民族人民委員にスターリンが任命されます。※ついにスターリン出てきましたね。


こうして、レーニンは政権を握って様々な政治を行います。


始めに行ったのが、「平和に関する布告」というものを世界に発表します。これは、無併合、無賠償、民族自決に基づいて、第一次世界大戦の講話を呼び掛ける布告です。


勿論、大戦中の連合国は、この呼び掛けを黙殺します。


更に、レーニンは同年に「土地に関する布告」を出します。社会主義国家を目指したレーニンはこの法案によって、土地の私的所有を禁止します。


即時に、地主から土地を没収し、農民に土地を均等に分け与えるのでした。


また、レーニンは社会主義国家を目指した一方で、憲法制定会議を国民と約束していたので、選挙により、これを行います。


ところが、選挙の結果、第一党になったのはボリシェビキではなく、社会革命党でした。


それもそのはずです。社会革命党は農民を支持基盤とする政党であり、農民の方がロシア国内に多かったので、ボリシェビキは一党になれなかったのです。


これを見たレーニンは、なんと武力で議会を封鎖してしまいます。その結果、国内では反革命勢力が多数表れるようになるのですが、その後の歴史でレーニンは自分の障害となる勢力を武力で徹底的に弾圧していきました。


更に1917年12月から、ドイツやオーストリアといった同盟国と戦争停止を呼び掛ける交渉を開始します。


1918年3月3日になると「ブレスト=リトフスク条約」が結ばれ、ロシアの世界大戦離脱が決定します。


※このときの講話によって、ロシアはポーランドとリトアニアとエストニア等の領土を失ったことも覚えておきましょう。


ちなみに、この条約締結は社会革命党の左派も反対していたことをお伝えしましょう。


こうして、国内の反対勢力を多数産み出しながらも、レーニンは議会民主制を否定して独裁政治を行うようになります。


ボリシェビキ党は、その後、1918年にはロシア共産党と名前を改めて、一党独裁の歴史を歩んでいくのです。






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