レーニン① 四月テーゼと七月蜂起
二月革命によって帝政が終わりを迎えると、亡命していたレーニンが帰国をします。
何故、レーニンが亡命していたのかというと、レーニンらボリシェビキは「革命的祖国敗北主義」という主張を唱えていたからです。
レーニンは、「革命を成し遂げるためには、ロシアが戦争で敗北し、帝政の限界を迎える必要がある」と真剣に考えていました。
※ちなみに、レーニンは日露戦争の旅順陥落時も、革命のチャンスとして喜んでいました。
こうした主張は、当時受け入れられるものではなく、レーニンは厳しい弾圧を受けました。
そして、大戦中にレーニンは亡命先のスイスで影を潜めていたのです。
ところが、国内で革命が起こると、レーニンは再びロシアに戻ってくるのです。
レーニンは、ロシア国内の情勢を見て「資本家が主導権を持っている臨時政府に、この国の舵取りができるわけがない」と考えていました。
そして、祖国に向かう列車に乗りながら、ロシアが今後進むべき道を考えます。
それを纏めたものが、有名な「四月テーゼ」です。
帰国した四月、レーニンが革命戦略要綱として発表します。
この中で謳われたことが、下記のことです。
①臨時政府の打倒
②戦争の停止
③土地の国有化
④全ての権力をソヴィエトへ
等々
こうした主張の背景を考えてみましょう。
当時の臨時政府は、資本家が主体でしたので戦争を継続し、軍需により利益を得たいと考えていました。
しかし、戦争でドイツに苦しめられてきた「当時のロシア国民の声」と程遠いものだったのです。
こうした現状をみて、レーニンは四月テーゼによって戦争の停止を主張します。
また、よく耳にする「全ての権力をソヴィエトへ」というスローガンは、要約すると下記の通りです。
「資本家に占領された臨時政府は、無力である。君たちソヴィエトが臨時政府を打倒して2度目の革命を起こして権力を握るべきだ。そして、資本家の戦争を止めるべきなのである。」
この呼びかけによって、ソヴィエトの支持は臨時政府ではなくレーニンに集まります。
また、兵士や労働者が七月に武装デモを展開します。これが七月蜂起です。
しかし、このデモは臨時政府によって鎮圧されます。また、ボリシェビキの指導部も弾圧を受けて、レーニンはフィンランドに亡命するのでした。
一方、臨時政府の方でも動きがあり、労働者や兵士の不満を抑えるためにケレンスキーが首相となり、内閣を結成しました。
再びレーニンが亡命してしまいましたけど、レーニンはどうやって権力を獲得するのでしょうか?そこは、次回解説します。




