ロシアの内政① ストルイピンの反動政治
ストルイピンの政治は、実は成功していたとする見方がございます。
しかし、本稿では「全国歴史教育研究協議会編」世界史用語集に準拠し、ミール解体は効果がなかったとする考え方を議論します。
ただし、歴史研究が進むにつれて、ストルイピンの政策の意義が見直される可能性もあり、今後、この部分については世界史教育の変遷次第で改稿する可能性があります。
第一次世界大戦で、ロシアの武器弾薬は直ぐにつきてしまいます。
これにより、戦争はロシアにとって守りに徹するだけであり、民衆も苦しい想いをして二月革命がおきたという話を前回お話ししました。
ところが、戦争での失敗だけでなく、ロシアは内政でも失敗を繰り返していたため、二月革命は起きるべくして起きた革命だったのです。
この内政の実状を語るにあたって、ウィッテという人物とストルイピンという人物を紹介します。
まず始めに、ウィッテについて語ります。ウィッテは、日露戦争後のポーツマス会議においてロシアの全権委任を務めた政治家です。当時のロシアで首相を務めていました。
彼は、国内で第一次ロシア革命が起こると、10月宣言にて国会建設を起草することで混乱を沈めます。
更に、ウイッテは自由主義を理想とする人物でしたので、ドゥーマだけでなく自由主義的な改革を試みようとします。
ところが、国内の保守層がウィッテの改革を許しませんでした。こうしてウィッテは、直ぐに追放されます。
ウィッテの後に、首相に就任したのが「ストルイピン」です。
ストルイピンは直ぐに議会を解散します。そして、「農村共同体」であった「ミール」を解体してしまうのです。
※アレクサントル二世の頃に、農奴解放令が行われます。おさらいになりますが、その頃に成立した農村の共同体がミールです。
何故、そんなことをしたか?ミールを解体すれば、農民の多くは自作農になることができます。ストルイピン自身もそれを狙ったのです。
しかし、実際には「ミール」を解体しても農民は自作農として上手くやっていけませんでした。
彼らは、集団だったから上手くやれたのに、いざ自作農になってくださいと追い出されても、没落してしまうのです。
結局、ストルイピンの政策は失敗に終わります。こうして、農民の多くは没落し、皇帝への不信を更に拡大させる結果に終わるのでした。
ストルイピン自身も、最終的には暗殺されてしまうのです。
もっとも、皇帝への不信は、ストルイピンだけでなく、ラスプーチンの介入によって大きなものに拡大していきますね。
その話を次回します。
ストルイピンは皇帝の前で銃殺されます。1911年の出来事です。




