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世界史講義録 ロシア史への誘い  作者: 鸛
ロシア史基礎編
24/75

二月革命(三月革命)の始まり 遂にロマノフ朝が滅びる

1914年6月28日、オーストリアの皇太子フランツ=フェルディナンドがセルビア人に暗殺されました。


これをきっかけとして、1917年七月にオーストリアとセルビアが開戦を行います。


ロシアはセルビアを支援するため、軍に総動員令をかけましたが、ロシアに対してドイツが宣戦します。


こうして、ロシアの同盟国であるフランスやイギリスも参加し、第一次世界大戦が始まります。


第一次世界大戦では、ロシアとドイツが東部戦線を形成して争います。


しかし、工業化が他のヨーロッパに比較して遅れていたロシアは戦争開始から一ヶ月で「武器」と「弾薬」が尽きてしまうのです。


ロシア兵の多くは満足な兵站を得ることなく、持久戦を強いられたのでした。


また、ドイツともタンネンベルクの戦いで負けてしまい、ロシアは守りに徹するようになります。


しかし、破竹の勢いで攻めてくるドイツにより、ポーランドやウクライナやベラルーシが占拠され、じわじわ苦しめられていくのです。


そんな状況なので、戦争から三年も立つと戦線から離脱する兵が百万人も昇って、深刻な状態になります。


※ロシアは、この戦争に参加するには力不足でした。


こうして、東部戦線で苦戦するロシアでは、国内の労働者も非常に厳しい労働環境に晒されるようになります。


また、農村で徴兵が行われると農業も成立しなくなるのです。この状況を喜んでいたのは、軍需産業で利益を得る産業資本家だけではないでしょうか?


こうして、長引く戦争は、ロシア皇帝への不満として蓄積していき、第二次ロシア革命のきっかけとなっていくのです。


1917年になると、民衆の我慢は限界に達します。国際婦人デーでしたので、婦人が先頭にたってパンを求めるデモが開始されます。これに労働者なども加わってデモが大規模化します。


すると、皇帝直属のコサック騎兵等が動員されるのですが、なんとコサック騎兵たちも民衆に同情してデモを助けるようになるのです。


こうして首都ペトログラードでは、大規模に膨れ上がる民衆の反乱を抑えることができなくなり、皇帝が自ら権力を維持することが出来ないことを悟って退位するのです。


これが二月革命(もしくは三月革命)です。


ん???二月なの?三月なの?と思われたかも知れません。ロシアの歴史を勉強する方は、ここをよく混乱します。


実は、どちらも正しいのですが、暦をどう見るか?で名前が別れます。ロシアの暦では、ユリウス歴を使っていので、暦上は二月になります。


それに対して、我々が一般的に使う「グレゴリウス歴」では三月になります。従って、二月革命と呼ばれたり、三月革命と呼ばれたり、どちらもあり得るのです。


ただし、多くの歴史の教科書では、ロシアの視点にたって二月革命と語るので、ここでも二月革命と書きます。


あと、二月革命では、繰り返し書きますが、皇帝自ら退位したのです。


例えば、入試問題の正誤判定問題で「二月革命では、レーニンたちボリシェビキが、武力でロマノフ朝を打倒した」という文章を見かけたら、それは間違いなく×です。


こうして、三百年続いたロマノフ朝は、幕を閉じるのでした。






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