日露戦争の世界史的意義…実は、日露戦争が第一次世界大戦を生んだ。
え?なんで?セルビアの青年がオーストリアの皇太子夫妻を暗殺したからではないの?
このように、教科書を読まれた方は思うでしょう。
それは、確かに「第一次世界大戦」のきっかけとして正しいです。
しかし、イギリスとフランスとロシアの協力関係そのものは、日露戦争の前後に生まれます。これに対立する形でドイツとオーストリアとトルコが加わります。
そこで、世界対戦にも繋がる国家間の複雑な関係が、日露戦争後どのように生じたか?
本日はそこにフォーカスします。
まず、日露戦争が勃発したときにロシアと日本が戦争していることを心底よろこび、傍観をしている国がありました。
ドイツです。
ドイツが何故喜んだかというと、ロシアが極東に進出することで、ドイツがバルカン半島に進出しやすくなるからです。
しかも、ドイツは皇帝自ら「黄禍論」という言論を唱えています。
黄禍論とは何か?簡単にいうと日本人などの黄色人種は、ヨーロッパに禍いをもたらす勢力になるという内容です。
そういった差別的発想に基づき、日本人が日露戦争でやっつけられてほしいとも考えていましたので、ドイツにとって都合がいい状況でした。ドイツはロシアが勝つと思っていましたからね。
このドイツの怪しい動きを警戒する国があります。イギリスとフランスです。両国は、日露戦争が勃発した直後にドイツの動きを警戒して、英仏協商を結びます。
ちなみに、日英同盟を結んでいたイギリスと露仏同盟を結んでいたフランスが日露戦争に直接参戦しなかった一つの理由は、間違いなくドイツを牽制するためです。両国が極東に進出すると、力が分散します。それはドイツにとって都合がいいのです。
だから、「英仏両国は、ドイツに備えるため日露戦争に直接は介入しない」という暗黙の同意ができあがり、日露戦争は日本とロシアのシングルマッチになるのです。
更に、日露戦争後、ロシアが負けます。このとき、イギリスは「なんだ、ロシアはそんなに強くないじゃないか(笑)」ということを悟ります。イギリスにとって敵ではなく、敵でないなら仲直りしようということで1907年に英露協商が成立します。
これは、長年、南下政策で争っていたロシアとイギリスの歴史的な和解と言えます。こうして、露仏、英仏、英露の三国間で協商関係が出来上がります。※これが三国協商ですね。
また、ロシアは、日露戦争により第一次ロシア革命が起きるなど国内が混乱しました。この時のニコライ二世は、国民の不満を反らすために、対外政策に力をいれます。
そのターゲットがバルカン半島であり、この地域を狙っているドイツ、オーストリア、ドイツの朋友であるトルコとの対立関係が出来上がります。
つまり、日露戦争の世界史的意義は、第一次世界大戦における国家間の対立構造を生んだのです。
そういう見方をすると、日露戦争というのは日本とロシア間の戦争という意味以上に、20世紀の大きな戦争の前哨戦としての意味合いもあったのです。
※なお、アジア諸国で民族主義が高揚したということも、日露戦争のもつもう一つの意義と言えます。
本日はここまで。
参考までに、日露戦争におけるアメリカのスタンスを書くと、アメリカは日本支援です。
日露戦争の戦費を得るにあたって、日本はアメリカとイギリスから調達しました。
しかも、アメリカは日露戦争戦後、時の大統領、セオドア=ローズヴェルトがポーツマスで講話の仲介を行います。
つまり、ドイツのような完全な傍観ではなく、アメリカ自身は戦いませんが、結構積極的に日露戦争に介入しています。




