虐殺の限りを尽くしたイヴァン4世
前回に引き続き、ロシアの歴史を語ります。
13世紀になると、ロシアはモンゴル人によって支配されるようになりました。ここまでは、前回のおさらいです。
しかし、モンゴル人勢力はフビライ・ハンの死後から徐々に衰退していきます。
そして、1480年、ついにイヴァン三世のもとでモンゴルの支配からロシアは自立します。
これがモスクワ大公国であり、名前の通り首都はモスクワです。
また、ロシアが自立した頃、東ローマ帝国が滅亡してしまいました。※1453年の出来事。
そんな中でイヴァン三世は、東ローマ最後の皇帝の姪と結婚していましたので、イヴァン三世は東ローマ帝国の権威を継承しようとします。
そのため、イヴァン三世の統治の時代から自分は皇帝「ツァーリ」だと名乗りだす「ツァーリズム」が始まったことも覚えておきましょう。
※ちなみに、ツァーリって、ロシア語訛りのシーザーのことです。自分はローマの偉大なる皇帝シーザーであるということを宣言しているのです。
その次の皇帝「ツァーリ」が、イヴァン4世です。
このイヴァン4世こそ、ロシアの歴史を学ぶ上で是非知っていてほしい人物です。
イヴァン四世は、民衆から雷帝と恐れられ、その異名は世界史の教科書にも載っています。
しかし、世界史の教科書では、単語しか記憶に残らないと思いますので、何故、イヴァン四世が雷帝と恐れられたのか?その所以を語りたいと思います。
さて、その話の前に、再びノブゴロドを思い出してください。
ノブゴロドは、バルト海と地中海を結ぶ要衝として発展した都市国家であり、モスクワ大公国が台頭すると併合されました。
しかし、イヴァン四世のもとに一つの密告がありました。それは、ノブゴロドがモスクワ大公国を裏切り、敵であるポーランドに寝返る陰謀を企んでいるとのことです。
そこで、イヴァン四世は「ノブゴロドを懲罰する」と考えて、大軍を引き連れてノブゴロドを攻めに行きます。
このとき、イヴァン四世の軍が途中で通過した街や村は全て破壊され、領民は皆殺しにされました。
何故なら、ノブゴロドに情報が漏れることを防ぐためであり、また、イヴァン四世は、異常なほど拷問と処刑を好んだ皇帝だったからです。
特に、イヴァン四世は拷問されて人々が苦しむ様をみては興奮しながら観察し、処刑者の血を見て雄叫びをあげて喜んだとも伝わっています。
そんなイヴァン四世の軍が通過した村や街は、たちまち屍の山が築かれたと伝えられています。
そして、ノブゴロドに入場したイヴァン四世は、おぞましい拷問器具を多数持ち込んで、六週間に渡ってノヴゴロドの住民の処刑を繰り返します。
当時のノブゴロドの住民は多くて三万人と推定されていますが、イヴァン四世のもとで、一万五千人の住人が惨殺されたとも言われています。
以上のように、イヴァン四世は、その残虐さから、雷帝と恐れられたのです。
話は大分脱線しましたが、ここからがポイントです。
イヴァン四世は、「テロル政策」と呼ばれる恐怖政治を行ないました。これは、ノブゴロドの例がそうであるように敵対する諸侯は徹底的に打倒した内容です。
また、イェルマークという人物にシベリアの遠征を命じ、領土の拡大を目指しました。
更に、農奴制強化、常備軍創設、貴族権力の抑圧を行い、まさに徹底的な専制政治を行ったのです。
本日はここまで。
誤解しやすい部分を補足します。ツァーリを称しはじめたのは、イヴァン三世の頃です。しかし、ツァーリという名称が公式に定着したのはイヴァン四世の頃になります。
イヴァン三世が、1547年に正式にツァーリを称した
という文章の正誤判定は×です。公式にツァーリを採用したのは、イヴァン四世だからです。