日露戦争 地獄の城「旅順要塞」の攻略
司馬遼太郎の、「坂の上の雲」が非常に有名ですが、坂の上の雲は小説として面白くても「史実」に反するとの指摘がネット上で多数ございます。著者も、「司馬史観」ではない視点から旅順攻防戦を書きますが、何卒宜しくお願い致します。
1898年に、ロシアが旅順を清国から租借すると、ロシアは旅順に対して旅順要塞という拠点を作ります。
旅順要塞は、日本軍も戦争するまでその構造を理解していなかったのですが、難攻不落の永久要塞でした。はっきりいって「地獄の城」と呼ぶに相応しいものです。
まず、旅順要塞は高電圧の有刺鉄線からなる鉄条網で囲まれています。しかも、周辺には地雷まで設置されていました。
そこに、大砲や銃撃などの攻撃に備えたコンクリートの塹壕が幾重にありました。これによって、ロシア兵は日本兵からの銃撃や砲弾に強く守られています。
そして、ロシア兵はこの複雑に入り組んだ塹壕を移動しながら、万の兵を配置していました。
日本兵を迎え撃つ武器は、大量の大砲に大量の機関銃です。
これらを避けて進んでも、堀が要塞を囲んでいます。そして、この堀に落ちたら最後で、堀の中に敵が落ちると、ご丁寧にも機関銃で狙い打ちできるようにロシア兵が陣取っているのでした。
この途方もない要塞での激戦が、「旅順要塞攻防戦」です。この戦いは、日露戦争の中でも有名な戦いであり、日本軍、ロシア軍に多大な死者を出しました。
しかし、最終的には旅順要塞が陥落します。
そもそも、何故、日本軍はこんな難攻不落の要塞を攻めたのでしょうか?それは、旅順艦隊を撃破するためです。
実は、当時の旅順港には旅順艦隊がいました。これに加えて、ロシアが日露開戦すると、ヨーロッパの方に配置していたバルチック艦隊も極東に召集し始めます。
日本の軍艦が、旅順艦隊とバルチック艦隊の二つに挟まれたら戦争で勝ち目はありません。
そこで、日本は戦争で勝利するためにバルチック艦隊がやってくる前に旅順艦隊の殲滅を行わなければいけなかったのです。
この時、日本軍が選択した作戦は、旅順要塞を撃滅させることで陸から旅順艦隊に攻撃をしかけることでした。
しかし、旅順要塞で日本軍を待ち受けていたのは、「地獄の城」だったのです。
当時の軍司令官であった乃木希典は、最初正面突破を試みますが、旅順要塞の正面突破が不可能であることを悟ります。
この時に、旅順攻略の作戦が変更されます。
旅順の西北部にある高地を制圧すれば、そこから旅順艦隊を見下ろすことができるので、ここを制圧し、旅順艦隊に砲撃を浴びせようとします。
この高地は、日本軍によって「203高地」と呼ばれました。ちなみに、203とは海抜からの高さが203mのことです。しかし、203高地に向かう途中のロシア軍の攻撃は激しく、簡単には制圧できないことを悟ります。
ただし、203高地進攻中に獲得した途中の地点で実は「旅順艦隊」を見下ろせることがわかったのです。
そこで、陸軍はさっそく旅順艦隊に砲撃を浴びせます。この時、実は旅順艦隊を撃破できたと陸軍は考えます。それは、ロシア兵の捕虜からもそのような情報を得ているからです。
※実際は、この攻撃の後旅順艦隊が逃げだし、海軍と旅順艦隊の間で黄海海戦が始まります。この黄海海戦と乃木の攻撃を合わせて、ロシア兵が報告した通り、旅順艦隊は実質無力化できていたとのこと。
しかし、日本海軍がその情報を信用せず、日本陸軍のトップも203高地を確実に制圧するように命令します。
軍司令官である乃木希典は、この作戦に反対していましたが、最終的には乃木希典の主張は通りませんでした。
決死の覚悟で「203高地攻略」に踏み切り、陸軍は突撃します。多数の死者を出しながらも、なんとか「203高地」を攻略したのです。
結果、「203高地」に砲台をセットして確実に旅順艦隊を撃破したのでした。
その後の戦いは、正面から戦うのが難しいので地面を掘り進めていきます。そして、坑道を掘削すると爆撃により旅順要塞に侵入し、日本軍が重要拠点をどんどん制圧します。
最終的には、この地獄の城を日本軍が遂に陥落させることで、旅順攻防戦は、幕を閉じたのです。
旅順要塞攻防戦では、203高地制圧後、大砲の雨が旅順に降り注ぎ、旅順を陥落させたとの見解もあります。
しかし、旅順要塞はとても堅牢で実際には203高地からの砲撃にもびくともせず、坑道掘削から、慎重に攻めたことで制圧できたのです。
旅順攻防戦で行われた「塹壕で守りを硬め、機関銃や大砲で攻める」という部分は、第一次世界対戦の西部戦線と全く同じ攻め方です。
このときの教訓は、「守りを硬めて機関銃で陣取る敵陣を正面から攻略するのは、とても難しい」ということでした。
ところか、この教訓は、極東の戦争のマイナーな事例と考えられ第一次世界対戦では、すぐに反映されません。
最初はドイツもフランスも、互いに突撃しました。
そういう意味で、もし、この事例をいかしていたら第一次世界対戦の死者はもう少し減ったのではないか?と考えることがあります。