小村寿太郎の奔走と日露開戦に至るまで
日露戦争をどのように語ろうか迷って、更新が遅くなりました。悩んだ結果、小村寿太郎を語りたくなりました。
やはり、この戦争だけで一冊の本になる内容なので、どこまでを伝えるか、精査してしまいました。
お許しください。
日露開戦に至る大きな原因は、「日英同盟の成立に対して、ロシアが対日強硬路線を取ったため」と著者は考えています。
そこで、日英同盟がどのように成立し、その時のキーパーソンである小村寿太郎にフォーカスしながら、日露開戦に至るまでを解説します。
※ごめんなさい。世界史の大学受験で小村寿太郎にフォーカスする必要はないのですが、日露開戦を語るにあたって、どうしても小村寿太郎を語りたかったのです。お許しください。
始めに小村寿太郎について、解説します。
まず、小村寿太郎ですが、明治33年(1900年)にロシアの公使として赴任していた過去がありました。この時のロシアは、ニコライ二世の治世下に置かれています。
小村寿太郎は、ロシアを見て、これまでの講義録で語ったように「極東進出をロシアが本気で考えていること、物資の輸送に苦労していること、それを改善するためにシベリア鉄道を建設していること」を知ります。そして、この情報を日本に送っていました。
そんな情勢下で、ドイツから日本に1つの提案がありました。内容は「日独英三国同盟」を結ばないか?ということでした。これは、日本、ドイツ、イギリスで利害が互いに対立するロシアを牽制しようというものでした。
しかし、ドイツは途中で外交方針を転換して抜けてしまいます。
一方、この提案についてイギリスは結構本気だったんてすよ。
何故、本気だったのか?
いろいろな事情がございますけど、まず、南ア戦争という戦争が挙げられます。
イギリスは、南アフリカ侵略時に南ア戦争と呼ばれる戦争を行いました。しかし、この侵略に実は苦戦していました。国内では増大する戦費が問題になり、その時から「栄光ある孤立」という外交方針に限界を感じるようになるのです。
そして、イギリスは、ロシアが地中海の南下に失敗したら、極東で軍備を増強し始めていることを知ったわけです。
これは、イギリスから見たら見過ごせるものではなく、イギリスの中国利権が侵される心配がありました。
しかし、イギリスは極力中国の駐留に軍事費をかけることなく、ロシアを牽制したいのです。
そこで、日本と手を結ぶことで、極東の安全保障を確立できると真面目に考えたのです。イギリスは、日本の明治維新後の海軍力を純粋に評価したのでした。
そして、明治34年(1901年)に桂太郎内閣の時代になると、小村寿太郎が外務大臣になってイギリスとの提携の可能性を模索します。
ところが、日本国内では、「イギリスが日本と同盟なんか結んでくれるわけがなく、この誘いには裏があると思う。ロシアと仲良くすべきだ」と考える勢力がいました。
伊藤博文です。伊藤博文は、日英同盟を結ぶと南下を進めるロシアを刺激するだけだし、イギリスが本気で同盟など結ぶわけがないと真剣に考えるわけです。
伊藤博文自身は、イギリスに留学したからこそ、世界の大英帝国が日本を相手にすると思えなかったのです。
こうして、国内は伊藤博文率いる「日露協調派」と小村寿太郎率いる「日英協調派」に別れるわけです。
最終的に、国内はどう纏まったかというと、歴史が物語るように「小村寿太郎」の日英協調派が主流になります。
小村寿太郎は、伊藤博文の隙をついて、国内の派閥を一人一人説得してまとめあげたのです。
結果として、日英同盟が成立します。日本とイギリスは互いの領土を認めます。※具体的には、日本の朝鮮半島の利権とイギリスの中国の利権を互いに認めたのです。また、極東の安全保障に向けて相互協力関係を築くことができました。
こうして、小村寿太郎は日英同盟をうまく成立させることができました。小村寿太郎は、イギリスの力を利用することで、ロシアとの軍事的衝突もなくなり、更なるロシアの南下も食い止められるだろうと考えていたのです。
ところが、ロシアは日本に対して対日強硬路線に出ました。何故でしょうか?
実をいうと、ニコライ二世は、日本とロシアの戦争を回避したいと考えていました。
しかし、宮廷内の寵臣達からなる「宮廷派グループ」は、「日本なんか脅せば屈服する」と思って対日強硬路線を進めるのです。宮廷派は、国際情勢がわかっていなかったのです(笑)。
こうして、日英同盟後、日本とロシアの対立は深まっていきます。そして、日本はまさに日本そのものの存亡をかけた戦いをロシアと行うのです。
これが1904年に起きた日露戦争開戦の経緯です。




