農奴解放令とナロードニキ運動の始まり
クリミア戦争の敗北後、アレクサンドル二世が様々な改革を進めていきます。
アレクサンドル二世は、戦争の敗因が「近代化の遅れ」であったと考えていました。だからこそ、様々な改革を進めます。
まず、アレクサンドル二世は1861年農奴解放令を出します。
この農奴解放令はよく試験に出ます。何故か?といいますと、農奴が自由になって、民主化が促されたわけではないからです。
農奴解放令ときくと、農民が完全に自由な農業を行えるようになったと思われるかもしれません。
しかし、実態はそうではありませんでした。何故なら、土地は依然として貴族や地主のものだったからです。
もし、農民が自作農になりたいのであれば、有償で土地を買うしかなかったのです。
ところが、この時代の土地の相場は、滅茶滅茶高かったため、実質的に農民が自作農になる道は閉ざされていたのです。
しかも、土地はミールという農村の共同体単位ごとに引き渡されたのです。結局、ロシア政府は農民をミール単位で支配したいと考えたのでこのような中途半端な形で解放が行われました。
もちろん、農奴という身分そのものはなくなったので、農民は農業以外の職業の自由を手にします。
ところが、これらの農民は殆どが工場労働者になるしかなく、低賃金労働で厳しい生活を強いられます。
このようにして、改革が進められたことでロシアの工業化が進み、資本主義社会にロシアが仲間入りします。しかし、改革は中途半端であり、立憲君主制の実現にはほど遠かったといえます。
この改革以降で、農民を啓蒙し、ミールを中心に社会主義国家の建設を目指す運動が起こります。
これが、ナロードニキ運動です。ナロードニキは、人民主義者のことです。1870年から都市の知識人階級「ロシア語でインテリゲンツァ」を中心に起こります。
ナロードニキは、「ヴ=ナロード」すなわち「人民の中へ」というスローガンを掲げて農村を説得しにいきます。
ところが、人間というのはいざ「革命しよう」と呼び掛けたところで、「なに言ってんだコイツ」となって終わることが多々あります。
ロシアの農村は保守的であっため、この呼び掛けに対してそんな感じになり、なんと革命運動に応じませんでした。
※革命だと騒ぎたてれば民衆が動く歴史が想像できますが、ロシアの農村はそうならなかったようです(笑)まあ、確かにそうだろうなと思うのです。
むしろ、いろいろな歴史の教科書を見ると「何故、革命家が革命運動をすると革命が起こるのだろうか?」と思います。こういう例もあって当然だと思うし、そこもロシアの歴史の面白いところだと思います。
このことに対して、ナロードニキたちは絶望します。そして、絶望したナロードニキは、権威や伝統的価値や既存の社会体制を否定する「ニヒリズム」という思想に染まるようになります。
「ニヒリズム」に染まったナロードニキたちは、なんと「暴力によって社会を否定し、変えるのだ」という考えに染まるようになり、テロリズムを行うようになります。
そして、ナロードニキたちは1881年にアレクサンドル二世を暗殺してしまいます。じゃあ、その結果ロシアの社会は変わったかというと変わりませんでした。
単にナロードニキ運動の弾圧と専制政治が強化されただけでした。
このようにして、アレクサンドル二世は自分の産み出したミールによって知識人を絶望させて、間接的に命を落とす訳ですが、アレクサンドル二世についてはまだ学ぶべきことがございます。
それについては、次回詳しく語りたいと思います。




